高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

シン・ヒョンスのバッハ「シャコンヌ」を聴く

 久しぶりにシン・ヒョンスを聽いた。しかもバッハの「シャコンヌ」。実は彼女が「シャコンヌ」をどんな風に弾くだろうかという漠然とした想定を以前からしていたのである。予想をはるかに超えるような気魄のある重厚なシャコンヌに出会うことになった。さすがはシン・ヒョンス。
 「シャコンヌ」は様々な演奏家が弾きたい曲の一つであろう。バッハがこの1曲だけ作ったとしても歴史に残るであろうといわれるような名曲だから、ということもあるが、「シャコンヌ」という曲を弾くという行為そのものが、自分と向きあうような感じに自然となってしまうところがある。自然に曲の中に没入するようなことになり、その自分をまた見ているもう一人の自分という感じになる。意識しなくても自ずから内省的になるのがこの曲である。内省的になる充実感を覚える曲とも言えるかも知れない。そういう曲であるから、聴く側からすると、演奏家の人間そのものを見る感じがする。そして面白いことに「シャコンヌ」に限っては、その人らしくないと思うほど厳しい演奏をするヴァイオリニストもあって驚くことがある。イツァーク・パールマンギドン・クレーメルなどがその例であろう。クレーメルなどは、同じバッハの「二つのヴァイオリンのための協奏曲」を演奏している時は、明るく豊かな雰囲気を楽しむ感じで弾いていたのに、この「シャコンヌ」では全く別人のように厳しい演奏をしているのである。「シャコンヌ」という曲がそうさせると言うほかはない。そういう意外な場面に戸惑うのではあるが、聴き続けているとそれぞれに気持ちの入った名演奏になっているので、納得して聴き入ってしまうという具合になる。

 曲の形態は「主題と63の変奏」という形を採ってはいるが、後世のような変奏曲とは違う。変奏曲というものは主題に基づいて音型を様々に変化させながら楽しむ曲想になっているのが一般的だが、この「シャコンヌ」の場合、音型を変化させているのには違いないが、変化させ過ぎないように抑えている感じがある。だが、主題のもつ和音進行はしっかりと通奏低音風にさりげなく刻印されていくという風になっている。そこが変奏曲なのに変奏曲ではないように感じるゆえんかも知れない。だから、演奏者によっては変奏曲らしくなるように音型に手を加えて変化をつける人もある。それによって変奏曲であったことを思い出させてくれるのだが、私はこのやり方に賛成ではない。というのは、それまでの緊張の綱をちょっと緩めるような感じになるからである。
 シン・ヒョンスはそうした弾き方をせずに原曲通り押していく方を採った。アルペジオによる変奏の入口では静かに入っていくのだが、次第に奥深い所に進んで行く。静かに沈潜しながら進みつつ、やがて徐々に上昇していく兆しを見せ、その後一気に駆け上がっていくという風に動いていくのである。ここに演奏者の情熱が噴出してくるので、曲全体の中でも一つの聽かせどころになっている。このアルペジオによる変奏に限らず、シン・ヒョンスは低音を太く響かせながら進行していくのが特徴で、ヴァイオリン特有の高音の美しさを若干抑える結果となる。それよりも曲の基調をなす部分をはっきり示していくという姿勢を貫くのである。そういう部分は、ヴァイオリンというよりもヴィオラを聽いているような錯覚にすら陥るほどだ。曲の本質を摑んで真っ直ぐに進んでいくあたり、やはり大物だなと思う。
 アルペジオの変奏を抜け出した後は一転して、非常に静謐な曲想に変わる。それだけにその前のアルペジオの変奏部分とのコントラストが際立つのである。この静謐な曲想部分も実に美しい所で、本当にバッハって凄いなあと改めて感じ入ってしまう。この「シャコンヌ」はどこもかしこも魅力に溢れた曲だから、こんな風に説明を続けると延々と長くなってしまうので今日はこの辺にして、ちょっと気になる他の演奏家のこと、五嶋みどり〔実に典雅な「シャコンヌ」〕やピアノで「シャコンヌ」を弾いているグリモーのことも日を改めて書いてみたい、という気になったところで結びとする。

 音源は:「[신지아 Zia Hyunsu Shin] 바흐: 샤콘느 Bach: Chaconne」
    https://www.youtube.com/watch?v=1wPFp0Q8Kb8