高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

 バイエルン放送交響楽団を聴く──潜熱の噴出する時

 昨日は思いがけなく、バイエルン放送交響楽団の演奏会に行くことができた。親しくして下さっている近所のSさんに招待券を頂いたからである。曲目はベートーヴェン交響曲3曲。指揮はマリス・ヤンソンスベートーヴェンだけのプログラムというのも珍しい。第1番、第8番、第5番の順で演奏されたが、第5番がことのほか素晴らしく、大きな感銘をうけた。特に終楽章では感動の余り涙が出てきた。これほど感動したのは、2年ほど前に広上淳一指揮の京響ベートーヴェン交響曲第4番を聴いて以来のことである。
 さてその第5番。「運命」の愛称をもつ曲であることは周知のとおりだが、有名なわりには生で演奏を聴く機会の少ない曲である。私の場合、高校生の時に京響の演奏で聴いて以来のことになる。あの時はベートーヴェン・チクルスというシリーズが1年間組まれ、毎回ベートーヴェン交響曲と協奏曲を組み合わせてプログラムが組まれていた。指揮は常任指揮者の森正。協演するピアニストとヴァイオリニストは新人ではなく当時日本でトップクラスと目されるソリストが招かれての演奏会で、非常に贅沢なシリーズだった。そんなことまで覚えている。
 私が交響楽団を生で聴くのは最近では京響だけになっていたので、一度別の交響楽団も聴きたいと漠然と思っていたところ、ドイツのバイエルン(以下略称)を聴く機会を得るという幸運に浴した。京響は世界でもトップクラスの交響楽団だと日頃から言いふらしているのだが、これは誇張でも過剰宣伝でもなく、心底そのように考えているからである。だが本当にそうなのかどうか、それは他の交響楽団と比較してみないと単なる誇張になってしまうだろう。そこへこの実力のあるドイツのバイエルンがやってきたのである。
 実は私はある時期、ベートーヴェンを聴かなくなっていた。ベートーヴェンを毛嫌いしていた時期があるのだ。なぜそんなことになっていたのか今となっては不思議なことだが、ベートーヴェンの演奏にも様々なスタイルがある。私が高校生の頃はフルトベングラーが神格化されるほどに評価が高かった。事実素晴らしい演奏でもあった。フルトベングラーの第9番「合唱付き」などは高校の音楽の時間にも流されて、非常に感動した覚えがある。だが、フルトベングラーばかり聴いていると飽きてくるのだ。ベートーヴェンといえばフルトベングラーしかないという固定観念が強くなってくる。そういう聴き方に偏狭さを感じて、そのような状態から抜け出そうと思ったのだと思う。だが実際にはブルーノ・ワルターの演奏もレコードで聴いていたので、フルトベングラー一辺倒というわけでは毛頭なかったのだが。いや好みからいえばむしろワルターの演奏の方がロマンチックで好みだったと言ってよい。しかしいずれにしてもベートーヴェンから次第に遠離り、長い間ベートーヴェンを聴かなくなっていた。そしてある時突然転機が訪れる。それはあっという間の出来事だった。
 マルタ・アルゲリッチのピアノ、ジュゼッペ・シノーポリ指揮のフィルハーモニア管弦楽団による、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番・第2番を聴いてひどく衝撃を受けたのである。これらの協奏曲はベートーヴェンの曲でも比較的若い頃の作品で、まだベートーヴェンらしさがさほど強く出てこない時期のものである。ベートーヴェンらしさという言い方をしてしまったが、それではうまく説明ができないので、むしろ若き天才ベートーヴェンの生き生きとしたエネルギーが自然にほとばしる作品たち、という言い方の方がいいだろう。その頃の作品としては他にチェロとピアノによる「魔笛の主題による変奏曲」を挙げることができる。この曲の場合はミッシャ・マイスキーのチェロとやはりアルゲリッチのピアノが圧倒的な演奏である。若き天才ベートーヴェンの出現。こうした若い頃のベートーヴェンの曲を聴いているうちに、ベートーヴェンの聴き方が私の中で刷新されていった。そして、晩年のモーツァルトを凌駕する天才が現れたという風に、当時の人たちは思ったのではないかと、私の中では意味づけるようになったのである。
 さて交響曲第1番のことに入ろう。この曲はベートーヴェンの天才が横溢する生き生きとした時期の作品であるが、この日のバイエルンはそうした側面を抑え気味に演奏しているように思えた。そういう意味では地味な演奏ということになる。それで多少物足りなさを感じていたのであるが、その一方で京響とはオーケストラとしての音の響きが違うことにも気付いていた。地味な演奏、地味な響きと今いったのだが、その地味な響きという言葉では十分に表現しきれないものをも感じていた。そこが京響バイエルンの違いのような気がする。その違いは何だろう? バイエルンの音は楽団員の個々の音が聞こえてこないような音、個々の団員の音が一つに融け合った音になっていることに気付いたのである。個々の団員の音が目立たないがために地味に聞こえていた。いや言い方を換えれば、それだけオーケストラのハーモニーが調和しているのである。そうか。伝統のあるオーケストラの音というのはこういう音なのかも知れない。
 今こんなことを書いていて思い出すのは、もう十数年も前のことになるだろうか。ある地方都市に室内合奏団が出来たので聞きに来てほしいと言われて行ったことがある。確か創立2年目の演奏会だったと思う。その時の音の印象がバイエルンの音と正反対の音だったのでいつまでも記憶に残っているのだが、その室内合奏団の音は個性のぶつかり合うような音、いわば音と音とが互いに弾き合うようなばらばらの音だった。言ってみればオーケストラとしてのハーモニーがまだできていない音ということになる。合奏団としての音ができるまでにはけっこう時間がかかるものだなあ、という感想をその時もった。それで呼んでくれた人にそのことを伝えた。どうもこういうことを言うのは生意気らしく、そのようなことを言ったことを後悔したのであるが、しかしその時聴いた合奏団の音が後々まで残る一つの基準になった。バイエルンの音はそういう意味からも興味深い響きになっていた。もちろん私自身の好みとしては、個性のぶつかる音が嫌いではない。むしろ面白いと思うほどである。しかしオーケストラの響きとしてはまだ熟していないという言い方ができるだろう。どちらの行き方があってもいいではないか。そんなことを感じながら聴いていたのであるが、私のベートーヴェンの聴き方は、どちらかと言えば個性のぶつかる音に関心が高かったので少々物足りないと感じたのである。だがこうした聴き方が適切でないことを後で思い知らされることになる。
 第8番も練達のオーケストラによるオーソドックスな演奏として聴いていたので今は詳細を省く。第5番も冒頭の「ザザザザーン」があっさりとひかれた。やはりオーソドックスである。だがこの印象は冒頭の部分だけだった。楽章が進むにつれて響きが少しずつ変わって来たことに気付いたのは第2楽章の途中あたりだ。何か鋭い音に転じて来ている。鋭い音というよりも輝きが出て来たといった方がいいかも知れない。あるいは非常に光彩陸離とした音になってきたという方が適切かも知れない。最初に感じたオーソドックスな音という印象が払拭されて次第に熱を帯びてきたという感じである。そうして団員が一丸となって曲の中に入り込み、忘我の境地で曲をひいているという感じになってきた。心の中に潜んでいた激しい感情が露わになってきたとでも言おうか。こうしたオーケストラのテンペラメントがホール全体を包みこみ、我々聴衆を包みこみ始めた。オーケストラと聴衆とが一体となって進行しているような雰囲気になっていて、私の目頭もいつの間にか熱くなっている。指揮者マリス・ヤンソンスは1曲目を演奏する時から、この第5番を念頭に置いて演奏していたのではないか、とその時感じた。
 振り返って思ったのは演奏会にも一種の構成という発想があることだ。レコードで聴くことが増えた現代では一曲一曲を仕上げるという意識で演奏されるので、曲ごとに構成を考えればいいようになっている。それは至極当然のことである。だが演奏会というものは、一曲目から最後の曲までの時間の流れがある。だから曲の配列にも心を配る必要がある。そこに演奏会全体の構成という意識が働くのである。マリス・ヤンソンスの指揮するバイエルンの演奏に今までとは質の異なる感銘を受けたのは、こうした構成意識に則ったテンペラメントの噴出という事態だったような気がする。そこに楽団と聴衆との一体感も生まれてくるのである。それを最後に持ってくる構成意識に新鮮な驚きを感じたということになる。