高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

思い出すことなど(続き)

 昨今の大学人の学問のあり方について痛切に思うことを考えているうちに、またまた若い頃のことを思い出した。若いと言っても多分三十代には入っていたと思う。だからこそ聞いた話しなのだが、やはり私の親友(その頃某国立大学の助教授)が先輩の学者から聞いた話しとして私の耳に入れてくれたことである。それは、「三十代をどう過ごすかで、学者としてその後どれだけの仕事が出来るかが決まる。今のうちにやるべきことをしっかりやっておかないといけない」という趣旨のことだったように思う。私の受け止め方としては、三十代は四十代、五十代になってから大きな仕事をするための蓄積期間だと受け取ったのである。

 私の三十代はある意味で流動的な時期というか、揺れ動く時期だったように思う。その頃何の見通しもなく、ただ「金文通釈」をしっかり読みたいという一心でやっていた作業があった。恩師の「金文通釈」の本文篇を自分で作り、それを元にして、数えられないほどの語彙カードを作り語彙索引に仕上げる作業である[※注]。もちろん通釈をノートに写しながら、自分なりの熟読を重ねるということの延長上の索引作りである。それに何年かかったかも忘れた程だから、二、三年程度ではない、五年ほどかかったのではあるまいか。何時終るのか分からないほど、遠い遠い道のりだったが、途中で止められないほど、身体に金文の語句や人名などが染みつき始めたために続けていたように思える。折角、白川静という人に師事するために立命館を選んだのだから、何もできないまま終るのでは、父親の反対を押し切ってまで大学に入った意味が分からなくなるではないか、という気持が強かった。それに大学時代に遭遇した大学紛争の中で、「学問とは何か? 学問はどうあるべきか?」という根本的な問いを突きつけられたこともあって、そう簡単に変節するわけにはいかなかったのである。学生の左翼運動にはあまり関心が湧かなかったが、学問に対する根本的な問いには、何とか答えなければならないと思い続けていたのである。先日書いた形而上学をやっておくというのも自分の中ではそれと深い関係がある。

 だがどんな面倒な作業でも、続けていれば終る日は必ず来るもので、32歳になってやっと、手書きだが書物にもなる形で仕上げたのである。仕上げたものを持って先生の桂の家を訪ねた時のことは白川静著作集の月報にも書いたので重複は避けるが、先生も「若い時に僕は君と同じ方法で勉強した」と言われた時には、驚きのような喜びのような形容しがたい感情が湧いて来たのだが、その時の自分には、金文を使って研究するテーマなど何も浮かばなかったのである。それというのも、やるべき問題は恩師がことごとくやってしまっているように見えたし、その後もまだ続けられるように感じたので、ともかく金文を読むための基礎作業だけは何とかやったようだが……。という感じだった。

 その頃、思いがけないことで選択に迷う出来事が起きた。それは私の書いた作家論が某有名雑誌に掲載されたことである。それも続けざまに。この件も、月報の一文に書いたので付け加えることはないが、本来やる予定ではなかった分野の研究が現われて、そちらにも欲が出てきたという変化による迷いである。贅沢な迷いだなと言う人もありそうだが、その方面でも何か出来そうな手応えがあったので、折角自分の存在が認められたのだからやってみたかったというのが正直な思いである。冒頭に記した「アドバイス」がその出来事の少し後だったような気がするがよく覚えていない。だがその「アドバイス」は、研究者としての人生を振り返ったベテランの研究者が、若い研究者に与えた重要なアドバイスとして受け取ったので、またまたそのことが気にかかり、三十代のうちにやっておくべきこととして、その後の研究の土台になるようなことに取りかかったのである。何の見通しもなく、自分が追究している分野ではこれだけはどうしてもやっておかねばなるまいと、何となく気になっていたことをやり始めたのである。どのようなことをやるかは、研究者によっても、研究分野によっても違うから、例の形而上学をやっておけという形で整理することはできない。何をやるべきかは自分で分かっているはずだし、分からない者はもうそれ以上何もすることはないだろう。いくつかある中の一つは「中国の考古学関係の雑誌も読めるようになっておかないといけない」という恩師からのアドバイスというか忠告があったが、自分でもそう考えていたことと一致するので、その後直ぐに考古学の発掘報告を読むための勉強を始めた。

 こういうことをやり始めると、なかなか二股をかけられないもので、「金文通釈」の「語彙索引」の作成を頼まれ、「金文の語彙索引を作ると身体が覚えるのだ」という不思議な勧め方をされたり、「身体が覚える」だけではなく、「その頭には宇宙が詰まっているようなものなのだ」という言葉まで頂戴したのは、意味不明だっただけに、狐につままれるような気持で再び金文の勉強に戻るようになった。
 私がその頃必要だと自分で思ったのは、春秋左氏伝の世界に通暁すること〔言語過程説の立場からも読んでいた〕、滝村隆一の国家論〔特に歴史的国家論〕をものにすること、『周礼』から読み取れる周王朝の構造、折口信夫の古代研究(特に祝詞論)に始まる、「古代学」全般の研究、言語学特にソシュール言語学等々、他にもまだたくさんあったが、書き出すときりがないので、取り敢えずここまで。人間というものは、こういう難物をいくつもものにしていくうちに、能力をつけていくものだという感想が今は浮かぶ。だが今やっている研究テーマに繋がるまでには、まだかなりの研鑽を積まなければならなかった。

 

2022.10.5追記

[*注]「数えられないほどの語彙カード」と書いた件。先日公開講座の《金文講座》でその時に作った「金文通釈標目器語彙索引」のノートをご覧頂いた時に、予めノートの行数からカードの枚数を割り出しておいたところ、概算で2万5千枚~3万枚だった。