高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

ヴィルデ・フラング独奏のブルッフ「ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調

 昨日は京響定期演奏会を聴きにいったが、思いがけない良い演奏に出会った。

 いつもなら何とはなしに期待感をもちながら館内に入るのだが、何か漠然とした気分で入った。今日は京響を聴きに来る日なのでここにいるのだ、といったようなあまり積極的でない気分だったように思う。最近あまり気分が乗らない日が多い。おそらく不順な天候に心身がともに左右されているのだろう。さほど意識はしていないものの睡眠も十分とれていないのだと思う。こうして音楽を聴く条件としてはかなり悪い状態のまま、京都コンサートホールに入ったのである。

 プログラムは下記の通り。

 1、エルガー:序曲「コケイン」(ロンドンの下町で)
 2、ブルッフ:「ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調
 3、メンデルスゾーン交響曲第3番イ短調スコットランド
   指揮:ジョセフ・ウォルフ、独奏ヴァイオリン:ヴィルデ・フラング

 今回は指揮者も独奏者も名前を初めて見た人たちである。エルガーはどちらかといえば好きな作曲家だが、今日は聴いたことのない曲だ。メンデルスゾーンスコットランド」は聴いたことがある筈だが、あまり記憶に残っていない。今日多少楽しみにしていたのがブルッフのヴァイオリン協奏曲だ。諏訪内晶子、アン・アキコ・マイヤースを聴いて以来だからもう随分になる。諏訪内が18歳にしてチャイコフスキー国際コンクールで第1位になった時はとても嬉しかった。今もその頃の諏訪内の顔が浮んでくるほどだ。その諏訪内の演奏するブルッフのヴァイオリン協奏曲も大変素晴らしかった記憶がある。残念ながらCDが直ぐに出なかったこともあって、彼女のCDを持っていないが、18歳という年齢なのにとても成熟した演奏をしていたように思う。技術的に破綻がないだけでなく、感情をうまく音に乗せていく手腕がすでに一流の域に達しているように思って、しばらく諏訪内を追いかけていたような気がする。
 CDでこの曲を買ったのはアン・アキコ・マイヤースの方だ。諏訪内を聴いていた頃、アン・アキコが日本に来たことがある。その時にもブルッフを演奏したのだ。彼女の演奏は朗々とした歌いぶりで、諏訪内とはまた違った魅力があった。諏訪内晶子、アン・アキコと韻を踏むような具合だが、私のブルッフ体験は大体この二人が占めている。そしてもう一人、以前に書いたことのある韓国のシン・ヒョンス。この人の演奏でブルッフの協奏曲を聴いてみたいものだ、そんなことを様々に思いめぐらしながら待っていたような次第である。

 ヴァイオリン独奏はヴィルデ・フラング。初めて聴く演奏家の場合、予備知識をもたないで演奏を聴きたいので、予め略歴を読むことはないのだが、以前チラシをチラッと見た写真の印象が薄く、漠然とした印象のまま始まった。
 あのゆったりとした冒頭の音は両アキコの演奏とは非常に違っていた。一言で言えば非常に繊細な演奏と言うことができるが、さりとてか細い音ではない。かなりの音量を出しながら繊細な演奏をするのだ。歌い方が繊細だという表現が比較的妥当かも知れない。ここでも歌という言葉が浮かんできた。音楽の本質は歌にあるが、その歌を歌う音色が多彩で美しい。メロディーを歌う時に音色への関心が強いのだろう。音色を旋律に相応しく弾き分けていた。それも意識的にではなく無意識にやっているという印象を受けた。これは彼女が鋭敏な感受性をもっていることを物語るものだが、それが彼女の演奏に奥行きを与えているのだ。フラングの魅力はここにあるのだと思う。近年女流ヴァイオリニストの音が逞しい音になってきていると感じていたのだが、そういう趨勢の中でフラングの演奏はまた違う道を歩んでいるところがとても新鮮で好ましい感じがした。

 フラングの演奏を良い響きで支えていたのが、ジョセフ・ウォルフの指揮する京都市交響楽団交響楽団の音は指揮者によって様々に変化するところが面白いが、ウォルフの指揮によって京響の音はすっきりした美しい音を出していた。広上淳一の指揮する音とも少し違った印象を受けた。広上の出す音はもっと豊麗な感じがする。それと比べるとあっさりしたというか、すっきりした音だ。この点でも今まで聴いた京響の音とは少し違っていた。多分フラングのヴァイオリンの音と調和させる意識が働いていたのだろう。それが音全体に輝きをもたらしていると感じた。