高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

ロストロポーヴィチの音──バッハ『無伴奏チェロ組曲』

 ロストロポーヴィチの音は軽くて深い。
 若い頃好きだったロストロポーヴィチのチェロ演奏に長い間触れていなかった。その存在が再び目の前に迫ってきたのは、バッハ『無伴奏チェロ組曲』(全曲)のCDが出た時だ。CDを取り出してみると1995年となっている。直ぐに買ったわけではなさそうだから、1996年のことかも知れない。CDが出たのは知っていたが、その頃私は、ミッシャ・マイスキーのチェロがバッハ弾きとしては最高に位置すると思っていたので、飛びつきはしなかった。マイスキーの演奏する『無伴奏チェロ組曲』はいかにもバッハらしい深みを湛えた演奏で、魂の奥深くまで染み込んでくるように音を響かせながら、聴く者を冥想に誘い込む。これほどの演奏は以前のロストロポーヴィチのチェロからも聴くことができなかった。いや壮年までのロストロポーヴィチのチェロは逞しいまでの力強い音を響きわたらせるような演奏であった。深みよりもむしろエネルギーをみなぎらせた音で、聴く者に元気を与えるような演奏であった。そのロストロポーヴィチが70歳近くなって、バッハのこの曲をしかも全曲録音したと知ったのである。
 この時私の記憶の中に、ロストロポーヴィチが若い頃のマイスキーに与えた助言が残っていた。チャイコフスキー・コンクールで6位に入賞したマイスキーロストロポーヴィチがことのほか高く評価し、弟子として指導するようになった頃のことだ。入賞者マイスキーにもレコーディングの話があったのだが、ロストロポーヴィチは次のように言ったという。
 レコードなどは、いつでも録音できる。今、あわててレコードを出すと、当初は、たしかに君にとって誇りになるだろうが、以後君はそのレコードによって判断される事になり、若い頃の未熟な演奏でランクづけられるとなると、それから立ち直るのは、とてもじゃないが難しい事になる。
 こう言ったそうである。これがマイスキーに若い時期の録音がない原因となっているのは間違いないだろう。その後精進を重ねたマイスキーは目覚ましい成長を遂げることになるのだが、政治的な迫害も受けており、音楽家としての人生は必ずしも順調ではなかった。しかしこのことを述べるのは本題でないので省略して、私がこんなことを書いたのは、ロストロポーヴィチの『無伴奏チェロ組曲』にも言えることだからである。彼は若い頃にこの曲を録音しているが、全曲ではなかった。なぜ全曲でないのか分からないが、あるいはまだ満足のいく演奏ではなかったからかも知れない。マイスキーが出した『無伴奏チェロ組曲』と比べてもマイスキーの演奏の方が一枚上だと言わざるをえない。それでロストロポーヴィチの全曲録音が出ても直ぐに買う気にならなかったのである。年齢は70歳に近くなっている。しかも指揮者としての活動の方が目立つようになっていたので、演奏家としては全盛期を過ぎたのだろうと思っていた。そこへCDが出たのである。
 ロストロポーヴィチマイスキーのことを書き始めたら、もう一人書かずにはいられないチェリストがいる。私はさきほどバッハ『無伴奏チェロ組曲』の演奏ではマイスキーが最高の位置にあると書いた。しかしそう書きながらマイスキーとはかなり異なる行き方で、素晴らしい演奏をするチェリストを思い浮かべていた。ヨーヨー・マ(馬友友)である。ヨーヨー・マの演奏の特徴を何と評したら良いだろう? 重厚だが暗くなりやすい特徴をもつチェロに、あんなにも伸びやかで朗々とした響きをもたらした人。明るく豊麗な響きと言い換えてもいい。それがヨーヨー・マだ。これだけでもチェロの世界に一つの画期をもたらしたと言うことができる。ヨーヨー・マの特長は何よりも「歌」である。彼は音楽の本質が歌であることを再認識させてくれる。どのような曲を演奏しても、彼の演奏からは喜びに満ちた歌が聞こえてくる。音楽の本質が歌であることは誰しも知っているだろう。理屈としてはそうだ。しかしそれを演奏で体現するということは意外に難しいことではなかろうか? ヨーヨー・マの『無伴奏チェロ組曲』を初めて聴いたとき、私は昔ラジオのFM放送で聴いたことのある、ピエール・フルニエを連想した。私の記憶ではピエール・フルニエにも「歌」があった。フルニエはフランスのチェリストである。フランスの演奏家には歌を感じさせる演奏をする人が多いと漠然と感じていたものだから、ヨーヨー・マの演奏を聴いた時、フランス人の演奏のように感じた。中国人のヨーヨー・マがフランス人のような演奏をする。そのことに謎めいたものを感じたのである。後に何かで、ヨーヨー・マはフランスでの生活がけっこう長いのだということを知って納得した。演奏には文化的な風土が出るのだろうか? 音楽の演奏は作曲家から提供されたものを音に乗せて新しい生命を吹きこむ仕事であるから、演奏家人間性というかパーソナリティーが出るのは当然のことである。ヨーヨー・マの演奏を聴いていると、そのような文化的な背景まで考えてしまうのである。
 二十世紀最大のチェリストとしてしばしば挙げられるのはパブロ・カザルスである。バッハの『無伴奏チェロ組曲』を発見し、それをいきなり高いレベルで演奏した人であるから当然の評価であろう。カザルスについても言及しないといけないかも知れないが、いよいよ冗長になるのでやはりロストロポーヴィチのことに入ることにしたい。彼は70歳を目前にしてこの曲の全曲を録音した。まず遅きに過ぎる印象を受けた。大丈夫なのだろうか? これほどの大曲を。あの若い時のエネルギッシュな演奏が可能なのだろうか? そんなことを漠然とながら思っていたように思う。だからCDをかける時ちょっと心配になってはらはらするような感情になった。実際にかけてみたところ、予想もしなかった音が聞こえてきた。これがあのエネルギッシュなロストロポーヴィチの演奏なのか? とうていそうは思えない。何と軽い音を出すのだ。バッハがこんな軽い音を出していいのか、とほんの一瞬感じてしまった。それはエネルギッシュで重厚な昔の演奏の記憶が残っていたからである。老ロストロポーヴィチの奏でるチェロからはそれほど変貌した音が発せられていた。まず音が軽い。軽いのだが軽薄ではない。なぜこのような軽い音になったのか? 聞き続けているうちに自然に浮かんできたのは、それまでエネルギーのもとになっていた音をすべて削ぎ落とした音ということである。改まった言い方をするならば、「あらゆる夾雑物を削ぎ落としたすっきりした音」ということになる。こういう言い方をすると単なるクリヤーな音と混同されそうだが、私の伝えたいのは、「あらゆる夾雑物を削ぎ落とし、音楽として必要な要素だけを残した音」ということになる。もっと簡潔に言うならば「軽くて深い音」ということになるが、いささか簡潔すぎて想定しにくい形容になっているかも知れない。しかし言葉で表現しようとするとそんなことになりそうに思う。こういう音は後にも先にも聴いたことがない。これから先もこういう音に出会うことができるのかどうか分からない、といった風な音であった。音楽家たるものが目指す境地というのはこういうものではあるまいか。何か精神論を説いているように思われるかも知れないが、そういう気難しいことを言おうというのではない。ロストロポーヴィチが目指していた音というのはこういう音だったのに違いない、と思ったのである。これは精神の高さ、境地の高さということである。うまく言えないのだが、演奏者の出す楽音には音色や強さや柔らかさ硬さといった音の他に、音そのもののもつ境地というものがある。
 後日画家の友人にロストロポーヴィチの演奏のことを話したところ、彼は演奏会で実際に聴いたことがあると言っていた。「どうだった?」と訊ねたところ、「マイスキーとは比べようのないほど素晴らしい演奏だった。大人と子どもの違いとでもいうか……。」と言った。凄いことを言うものだ。しかし絵をやっている者でも(というと失礼だが)分かるほどのレベルの違いが厳然とあるということだろう。私は今もマイスキーの演奏が好きだし、ヨーヨーマの演奏が好きだが、演奏のレベルはロストロポーヴィチにとうてい及ぶものではない、とはっきり言うことができる。カザルスは二十世紀最大のチェリストであったかも知れないが、ロストロポーヴィチは二十世紀最高のチェリストである。今後これほどの演奏家に出会うことができるかどうか? これがこれからの楽しみである。

 10月2日に若干の修正を加えた。