高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

「象形文字」ではなく「形象文字」といえば適切な表現になる

 最近、やっと気付いたことがあるので、記しておきたい。
 以前、拙論で「言葉の意味するところをイメージで描き出した文字が初期漢字の甲骨文・金文だということ」と書いたことがある。少し前から引用しておこう。

 《「古代語」という槪念を立てて、付加要素を「限定符」と名付け、言語と文字との関係を考えてきた過程で気付いたことがあるので、そのことを最初に記しておきたい。「象形」槪念に関するものである。甲骨文・金文は、言葉で伝えるべき事物や形姿・場面・図解・図示の類をシンボリックに描くことによって、「イメージ」として伝えようとした文字である。これが「象形」という言葉で説明されてきたことの本質であって、単に物の形を表わすだけが「象形」なのではない。むしろ「何をしているところかを描いている文字」という言い方をする方が適切な場合がある。こう捉えることができれば、「会意」だが「全体象形」であるとか、「会意」だが「場面象形」であるなどと苦しい言い方をしなくても済むわけである。言葉の意味するところをイメージで描き出した文字が初期漢字の甲骨文・金文だということを何度も強調しておきたい。》

 「言葉をイメージで伝えようとする文字」であるからこれを一語に集約すれば「イメージ文字」ということになるが、「イメージ」という語は日本語では「形象」と訳してきた。ということは「象形文字」を「形象文字」と言い換えれば、本質を捉えた言い方になるのである。熟語の前後をひっくり返すだけで意味するところが大きく変わる。言葉というものは面白いものだ。

 以下、これも引用だが、前述の引用箇所が一段落するところ。

 《一方、文字から言葉の意味するところを読み取る側からすれば、そこに記された「イメージ」を通して、言葉が発せられた場を追体験することが求められている。言葉を表現する者とそれを理解しようとする者との関係はこのような構造になっているのが、「古代語」の世界である。その言語場を追体験するということ。それがどこまでできるかが、甲骨文・金文を理解する上での鍵を握っている。観点を換えると、イメージ化された文字の形からは、表現者の言葉に対する認識の仕方が窺われるということでもある。》