高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

語彙索引を作ると身体が覚えるという白川先生の言葉

   語彙索引を作ると身体が覚えるという白川先生の言葉

 白川先生は語彙索引を作ると身体が覚えるということを何度か仰ったことがある。だが『金文通釈標目器本文索引』(私家版)という「語彙索引」を完成したばかりで解放感の方が強かった私には、いまひとつぴんとこなかった。そういう実感などあるはずもなかった。その先生の言葉が蘇ってきたのは10年以上も後のことである。金文を資料に用いるテーマをあれこれ考えている時や、論文を書いている途中でふと重要な事実がどこからか自然に湧いてくる時である。「啓示」というほどの閃きもなく、何か身体のどこかから自然に染み出てくるような感じで、脳裡に浮かび上がってくる。あたかもそれを以前から知っていたかのような感じというか、以前に見たことがある風景をようやく思い出し始めたという感じである。こういう心理的体験をデジャ・ビュ(既視感)というらしい。
 あの難解な『金文通釈』が読めるようになるために『金文通釈』の本文テキストを自分で作り、それを基にした「語彙索引」を作っていた頃の自分の姿を思い浮かべているうちに、文字を機械作業のように写していたのではなかったことを思い出した。
 文字の意味が分からないので、どういう意味だろうということを常に考えながら、その文字を含む文の一節をカードに書写していたように思う。これを何度もやるのである。馬鹿みたいに同じことを繰り返すのである。そして語彙カードを全部書き終えた後、語彙毎に整理しそれを清書する時にも再度これを繰り返すことになるのは言うまでもない。一番大変なのは、書き終えたカードを語彙毎に整理する作業であるが、この作業は形には現われないため、それをやった者にしか分からない大変さがある。傍から見るとレベルの低い者が業績作りのためにやる単純作業に見えたのだろう。あいつはあんなことしかできない奴だと、先輩も後輩もそう見ていたような気がする。
 いま文字と書いたが、その文字が文中において意味するところが何であるかを常に考えることが、いつの間にか習性になっていたのだと思う。文字が語であることをどこまで意識していたか分からないが、文中における文字の働きを考えるわけであるから、無意識であるにしても、文字を語として認識していたのだと思う。もっとすっきりした言い方をすれば、文字が示すところの語の機能を探りながらこの作業を何度も繰り返していた、ということになるかも知れない。だがその時はそういう明確な意識はもっていなかった。それが今になって蘇ってくるのだから不思議なものである。