高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

「金文に見る古代語の文字表現(一)序論 なぜ古代語なのか」

 白川研究所〔略称〕の「紀要」に掲載した論文がPDFになったのでお知らせしておきます。
  (注)「立命館白川静記念東洋文字文化研究所」がフルネーム。

 「金文に見る古代語の文字表現(一)序論 なぜ古代語なのか」
  http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/sio/file/kiyou14/no14_02.pdf

 以前「古代語という概念の重要性」という文章をこのブログに掲載し、何度か加筆したことがありますが、今回の拙論はそれを具体的に論文の形で展開し始めたものです。かつて小島祐馬や恩師白川静によって議論されたことのある「反訓」という現象が意味することにも言及しています。

冒頭に「古代語」概念を記しておいたので、引用しておきます。

 《古代語という言葉を使うに当たって、その意味するところ〔概念〕について一通りのことを記しておきたい。ここに「古代語」と呼ぶものは、古代社会において用いられていた文語的な口頭言語〔雅語〕のことを指していうのだが、特にそれを文字で記したものを「古代語」と呼び、「文字言語」と区別することにする。これまで漠然と「文字言語」と呼ばれてきたものとは次元が違うことを特に意識してそう呼ぶのである。簡潔にいえば「古代における雅語を文字化したもの」ということになる。雅語という呼称は言語学者たちが用いている術語にしたがったものだが、私自身は時には同じ意味で「祭祀言語」という語を用いることもある。祭祀儀礼の場を意識した方がイメージしやすいと考えた場合にそうするのである。》

 「古代における雅語を文字化したもの」という言い方もしているので、拙著『甲骨文の誕生 原論』を読んでおられる方ならお分かりになると思います。(注)拙論で論じたこと、説明したことを理解しておくと、古代文献を読む際にきっと役立つと思います。

 今まで「文字学」とだけ呼んできたが、こうしたテーマを扱い始めると、文字の問題は言語の問題であったことが分かります。そして言語を文字でどのように表現するかということに向き合っていたのが初期の文字記録者だったことが分かります。私の主宰する研究会が「初期漢字研究会」という名称になっているのは、このような考え方に基づいています。今後は単なる「文字学」ではなく「言語文字学」と呼んだ方が実際にかなっていると思われますので、ぼちぼちそうしようと思っているところです。

 【漢字を教える教育現場の人への断り書き】
 漢字を教える教育現場の人にとっては、受け入れがたい考え方だと思いますが、それは「漢字には意味があり、それを使って文章を書くのだ」ということを学校で教えられた現代人の文字観なのであって、無文字社会に初めて文字が生み出された時代の人々の文字観とは異なっていますので、議論が噛み合わないようになっています。教育現場の人は、今まで通り、「漢字には意味があり、それを使って文章を書くのだ」という文字観に基づいて教育を行なって下さい。これは現代社会における約束事なのですから、そうしないと混乱します。
 ですが、初期の漢字を研究対象にする場合、そういう文字観では理解できない現象がたくさんあるのです。現代人の文字観と古代人の文字観とは違っていて当然なのです。

 古代に関心をもつようになり、古代文献を読んだり、古代における文字というものを根本的に考えようとした時には、私の提示した文字観が必要になってきます。

 

 → 古代語という概念の重要性
   https://mojidouji.hatenablog.com/entry/2019/03/11/202736