高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

「古代語」という概念の重要性

 拙著『甲骨文の誕生 原論』を上梓したことによって、甲骨文や金文の時代の言語に即した文字観を打ち出すことができた。この文字観は「特別な時に用いられる口頭言語(雅語)を記録したものが文字である」というものだが、その後もいきなり文字で記す(文字言語)時代にはならず、引き続き口頭で発せられた雅語を文字で記す時代が何百年も続くのである。ただ文字を通してその時代の言語を理解しようとするなら、このことを理屈で理解しただけで済ませるのではなく、実践的に理解する必要がある。つまり言語は文字を介さずに(文字を念頭に置くことなど全くなく)常に口頭で発せられるだけだという意識を持つ必要がある。そして言語が発せられる場面、すなわちそのような言語場を実際に想定するという想像力が必須になってくる。理屈だけで理解したつもりの人はこの作業を省略しがちであるが、それでは単に理屈で理解しただけのレベルにとどまり、実際の言語を理解する道を自ら断ってしまうことになるのである。このような段階の言語を「古代語」と呼んで、文字を常に念頭において言葉を発する時代の言語と区別する必要がある。

 こんな風にして今後もどんどん考えが進んでいくが、よく分からない人は拙著『甲骨文の誕生 原論』を繰り返し読む必要があるだろう。あの本が理解しにくい人は、言語と文字との関係を誤解している可能性が高い。その誤解はおそらく、文字にもともと意味があり、その文字を使って言葉を表現しているという思い込みがあるからだと思う。文字言語という言葉そのものがそのような誤解をしていることの現われであるような気がする。時代は古代なのであって、現代の言語と同列に扱えないところがあるということを自分に何度も言い聞かせないと、「古代語」特有の意味世界を捉え損うことになる。(2019.3.11)

 

 古代語は文字を意識せずに口頭で言葉を発するわけであるから、古代特有の概念を理解するためには、発語の場をできるだけ具体的に捉えることが必須になってくる。私が心がけている事項を列挙し、古代語に関心をもっている人の参考に供しておく。これはあくまで現時点で想定していることである。将来追加することもありうる。これらの項目は別々に想定するわけではなく、相互に関係したものとして想定していることも一言しておく。
 1、言葉の臨場感
 2、言葉の直接性。(文字というものを介さない)
 3、言語場の共有(話し手と聞き手の)
 4、身体性。                  (2019.9.24)

 

 古代語と音韻に関して私自身が注意していることがある。私自身への心覚えのようなものだが、参考に記しておく。

 1、上古音の枠組を規格化し過ぎないこと。
 2、あくまで理論的推定音であることを忘れないこと。
 3、重要なのは語の機能である。
 4、文字化された文章を読む場合に、字形には省略形もありうると考えること。  →後注
 5、別の文字を使うこともありうる。
 6、楷書化は一呼吸置いてから。
 7、文字に意味があると考えるのではなく、言葉を文字で表現しているのだと考えること。
 8、音韻学の成果も参考にすること。          (2019.9.24)

 

 【4の注】
 例えば、どなただったかの間で交わされた、『左伝』と浙江大学蔵の戦国竹簡(浙大簡)との関係をめぐる論争で話題になった、「行器」という語の用字をめぐる問題をとりあげてみよう。浙大簡が「行器」と書いているのを文字通りに受け取って「移動行動に備えるもの」といった理解の仕方をするから問題になるのだが、この場合の「行」字は「刑」の意の「桁」を示す語だと思われる。金文の用字に対して時々使われる繁文・簡文という言い方を適用するなら、「桁」が繁文であり、「行」は簡文ということになる。そうすると「行器」と書かれている語は「桁器」とも書かれ得るわけで、『左伝』の現行テキストに見える「刑器」と同じ意味を示す語になる。
 こうした文字面は、古代語の文字表現という観点からすれば十分ありうることなのである。古代語時代の多彩な用字に慣れない人は、文字面をそのまま受け止めて理屈だけで理解しようとするので謎になってしまうわけである。このような文字表現(用字)は、金文では特に不思議なことではない。金文によく馴染んでいる人なら、直ぐに「桁器」という語が閃くのではあるまいか?。 上古音の復原を追究するつもりなら、こうした古代語時代の多彩な文字表現(用字)を念頭に置いておく必要があるのである。「言語の文字表現」という言い方で私が伝えようとしていることはこういうことなのである。(2020.6.1加筆)

 

 「古代語」という概念の重要性を先日から強調しているのだが、私が説いていることの要諦はつまるところ「言語場を追体験する」ということに帰着すると考えてよい。「追体験」といえば、以前「言語過程説」について少々書いた時にも提示した言葉である。(三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(1)・(2))
 文学の研究に有効な言語学「言語過程説」。一昨日書いた、「臨場感」とか「直接性」、「言語場の共有」、「身体性」も、古代語の言語場を私なりに追体験したことを分析して浮かんだものである。
 とはいえ、この「追体験」という行為は、現在のことならいざ知らず、古代社会を想定したものであるから、何の準備もなしにできるわけではない。古代社会における言語場を「追体験」できるようにするための、様々な用意をしなければ想像力そのものが動き出さないのである。そのような「追体験」が可能になるような方向にコツコツと努力するわけである。これは、理屈だけで結論を出そうとする方法(学風)、あるいは要領よく論文を書くというようなやり方とは全く逆方向に向かうもので、大変な作業が求められるともいえる。泥臭いやり方である。(言語の用例分析も泥臭い大変な作業であるが、やはり「追体験」という行為とつながっている。)でもそれができるようになれば非常にやり甲斐のある仕事になる。  (2019.9.26)