高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

「言語の文字表現」という文字観

 上記の文章(10月14日)をアップした後で思い出した。以前、三浦つとむ『日本語はどういう言語か』について2回に分けて書いた文章の中で、言語過程説の言語学を、「表現された言語」を研究するための言語学と書いていたのである。もちろんこれは私の捉え直しであって、三浦がそういう言葉を使っていたという意味ではない。これに近い言い方をしていたのはむしろ、『言語にとって美とはなにか』を書いた吉本隆明の方で、確か「表現としての言語」という言い方を強く押し出していたのだったような気がする。
 最近になって私は文字学を追究する観点から、これを「言語の文字表現」という概念で捉えるようになった。『甲骨文の誕生 原論』で提示した文字観がかなり明確な問題意識をもって次の段階に入ったということである。「言語の文字表現」という問題は、漢字以外の世界の文字が誕生した時に直面した問題だが、漢字の原初形態である甲骨文や金文が直面した問題も「言語の文字表現」であったことがようやく分かってきた。一見、文字言語がいきなり成立したかのように見られがちな甲骨文であるが、そのように考えてしまうのは、「雅語」という「文語的な口頭言語」を想定しないがために、そのようにしか見えないだけのことである。漢字の書記システムもまた世界の文字と同じ問題、つまり言語を文字でどう表現するかという問題に直面し、それを実現したのである。
 こうした問題は、字形だけを見て文字の成り立ち(字源)を考えるようなやり方では分からないというか、気付かない問題である。言い換えれば、甲骨文や金文を言語として捉え、「言語の文字表現」を分析する立場に立たないと、漢字の歴史を跡づけることも覚束ないような気がするのである。

 私がこのような問題意識を持てるようになったのは、多分、若い頃に言語過程説の言語学に深く傾倒し、実践的に理解しようとしたことと関係があるような気がする。言語過程説とは言語を認識と表現の過程として捉えるということであり、表現者が言語をどのように認識し、それをどのように表現しているかということを考えるというやり方である。これを三浦は「追体験」と呼び、『日本語はどういう言語か』で非常に分かりやすく説明している。

 若い頃に読んでいた言語学方面の研究書は、三浦つとむ時枝誠記吉本隆明の他に、森重敏のそれがある。とりわけ吉本と森重の著作からは多大なる恩恵を蒙っている。森重自身は言語過程説を名告らないが、表現者追体験という視点を打ち出している点で、共通するものがあると私は考えている。

(注1)若い頃に読んでいた言語学方面の主な研究書
 三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社)  [現在]講談社学術文庫
      『認識と言語の理論』1〜3(勁草書房
      『日本語の文法』(勁草書房
 時枝誠記国語学原論』(岩波書店)  [現在]岩波文庫
 吉本隆明『言語にとって美とはなにか』1・2(勁草書房) [現在]角川文庫&角川選書
 森重敏『日本文法通論』(風間書房
    『日本文法』(武蔵野書院)
    『発句と和歌』(笠間書院
    『日本文法の諸問題』(笠間書院
    『文体の論理』(風間書房
 (注2)三浦つとむ『日本語はどういう言語か』については、2011.4.17と2011.4.21の文章をご参照下さい。