高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

直観が働きはじめたのは40歳を過ぎたあたり

 私の学者としての人生は随分迂遠な道をたどってきたように思われる。そもそも恩師白川静が膨大な仕事を積み上げて来たので、先ずそれを一通り読んで理解するところから始めなければならなかったという事情がある。その上、恩師の求める内容が並大抵のものではなかった。以下に記す。

 1、創見がなければならない。
 2、全体観がなければならない。
 3、論争性がなければならない。
  (注)最後の3は必ずしも必要ではないと今にして思うのだが、そう言われた。この点については、今の私は、批判や論争を通じて何かが生まれるのでなければ、それは単なる自己顕示に過ぎないと思う。

 これらを一通り満たすのは難しいことだが、私自身が大学時代に「あるべき学問」と考えたことと重なるところが多かったこともあって、その実現を目指していたのである。だがなかなか形にすることができず、ずっと下準備のような勉強と作業を続けながら試行錯誤していた。そして40歳を過ぎた頃から色んなものが見えてきて、直観が働くようになった。ここでいう直観は「直感」とは違うもので、ピンと閃くとか、ある日突然啓示を受けるというようなはっきりしたものではない。もちろん小さな意味での閃きの数々は当然あるのだが、それはあくまで小さな閃きに過ぎない。表現を変えてみると、幾つもの方向から追究していたことが、何かに導かれるようにして次第に絞り込まれるような感じで進んで行って、どうやら重要なことを摑んだようだと確信に近い状態に入っていくのである。その「何かに導かれるようにして」の「何か」が何であるかは自分にも分からないが、自分が求めている方向に導いてくれる「力」あるいは「智慧」のようなものではあるまいか。それは自分の中にある自分とは違うもう一人の「誰か(私?)」とでも言うのが近いかも知れないが、そんな風にしか表現のしようがないものである。ただ、そのような意味での「何か」は誰にでも備わっているわけではなさそうだということも次第に感じるようになった。


 例えば、何かに急かれるかのように、結論を急ぐ人には備わっていないようである。誰よりも先に自分がこれを発見したのだということをアピールしたい人にも備わっていないようである。それは以前言及したことのある、利根川進の「つまんないことを発見しただけで大発見だと大騒ぎしすぐ論文を書く人」もそれに相当するようである。利根川は「かなりの部分天性なんでしょうね。」とも述べていたが、その点については自分に学問的な「才能」があると思っているわけではない私には分からない。腹が据わっている、据わっていないということと多少は関係があるのかも知れないが、この問題は興味深いことなので今後も関心を持ち続けることになりそうである。


 蛇足になるが、賢そうなこと〔理屈のようなもの〕を言いたがるというのは、もともと「邪念」が働いているので、本質を見極める時の邪魔になる。「賢そうなことを言おうとすると真理が逃げていく」とでもいうか。「賢そうなことを言うのが上手な人」はけっこう人気があるようだが、そのような現象そのものが私には滑稽に見えるのである。