高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

「ロストロポーヴィッチの音」への追加コメント

  はじめに

 2015年10月に書いたものに基づいて多少書き直した文章を今頃になって載せる。読み直してみると、一応は書き上げていたように見受けられるが、あまり余裕がなかったこともあって、掲載を見合わせたもののようである。でもやはり気になってはいたものと思われる。かなり時間が経過しているが感想としては大きく変わっていない。


  本文

 先日(去年)西宮市にお住まいのMさんからロストロポーヴィッチのDVDが送られてきた。Mさんは私の知り合いでもなんでもない。ここに掲げた「ロストロポーヴィッチの音」を読んで気に入って下さり、一度手紙を勤め先に送って来られた方である。DVDを送るから自宅の住所を知らせよ、聴いた感想を書けとのことだった。だが、私は音楽評論を飯の種にしているわけではなく、気晴らしに音楽のことを書いているに過ぎないので、こういうリクエストは嬉しい半面途惑いを覚える。それに音楽への道は一度断念した人間であるから、あまり深入りしないようにしている。そもそも人に依頼されて音楽を聴き、その感想を述べるということ自体が社交辞令めいていてわざとらしく、あまりやりたくはないものである。下手なことを言って気を悪くさせるという可能性も少なくない。事実そういうことが過去にあった。それで、返事を書かずにいた次第である。実はこういう種類の手紙は最近けっこう増えてきたので、他にも不義理をしているケースがある。

 とはいえこうして送られてきたものが手もとにあると、ふと思い出して聴いてしまうものである。それで先日何気なくこのDVDを聴いた次第である。その感想は今回はたいそう書きづらいのだが、敢て書くことにすると、CDで聴いたのと同じ演奏であり、印象も全く変わらないことである。今回書くことはここに尽きる。だがこれだけでは合点がいかない方もあるだろうから、別の観点も交えてもう少し続けることにする。

 DVDで聴くのとCDで聴くのとでは音の響き方は多少異なるのだが、演奏を聴くというのはそういう物理的な響きの違いに焦点を当てて聴くわけではない。むしろそういう媒体の違いを超えた音の核になっているものを聴き取るという聞き方をしているような気がする。今回偶然にも同じ演奏を違う媒体で聴く機会を得たことによって、私自身がどのような関心をもって音楽を聴いているか、また物理的な音のもつ様々な側面のどこに焦点を当てて聴いているのか、ということに気付くきっかけになったような気がする。

 再生装置のことを色々ご教示下さったが、そういうものに凝るつもりはない。CDを聴く場合でも、一般的な再生装置を使って聴いているだけである。凝り出すとキリがないだけでなく、音楽を聴く時の関心が、音は音でも別の所に向うような気がするからである。要は、どのような再生装置を使うにしても、その演奏家の表出する音楽と音から何を聴き取るか、何を読み取るかということが重要な鍵を握っているような気がする。私がブログに書いている音楽論の半数は、インターネットのYouTubeで視聴した感想である。ノートパソコンに小さなスピーカを接続しただけのものだから音響装置としては劣悪なものかも知れないが、そのような「悪条件」の中で聴き取れたこと(あるいは読み取れたことと)、敢て記しておきたいと思ったことだけを記しているのである。私の感想を見たり聞いたりした人から、そんなことまで分かるのか? と言われたことはこれまでも何度かある。私は素直な人間だからありのまま、聞こえたままの感想(というよりも感動)を述べているに過ぎない。ただこうした文章に綴っているのはなぜかと自問するならば、私が感得した音の世界を、言葉でいかに伝えるかという表現の問題に挑戦しているのだということは言えるかも知れない。

 別の文章にも書いたことがあるが、音楽の楽しみ方には人それぞれの流儀があって良いはずだ。同じ音楽を聴いても別の感じ方受け取り方があり、それこそ十人十色のはずである。私は他人の鑑賞の仕方や受け取り方(解釈)についてもとやかく書いていない。だから気に入らなければ読まずに済ませたり、忘れていただければいいだけのことである。今回頂いた手紙によって、私とは別の楽しみ方をする方がおられることを改めて知った。ただ私はそういう楽しみ方をしない人間であるということ。それだけのことである。そしてそのことについて議論をしても何も生まれないと思う。

 MさんがわざわざDVDを送ってきて感想を求められた本当の意図は、私の書いた「軽くて深い」という表現の「軽くて」を削ってほしいというところにあったことを、今回の手紙で初めて知った。「軽くて」が気に入らない。「深い」だけにしてほしいという趣旨と受け取れた。だが、件の文章にも書いたように「軽い音」というのは軽薄な音という意味ではない。同じことは繰り返さないが、もっとレベルの高いことを意味している。「軽くて」しかも「深い」というところにレベルの高さがあるということである。それをロストロポーヴィッチだけが達した境地と言ったのである。お気に召さないのだろうが、あの文章の文脈の中で用いている「軽くて」という言葉を削ると、ロストロポーヴィッチの本当の凄さを伝えることができないのである。