高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

「技」としての「思考」

 「考える」という行為は武道(武術)における「技」と同じだという考え方は、或る武道家から教えられたものである。やはり学生時代に出会った重要な「教え」で、振り返ってみて全面的に同意できるものである。「技」としての「思考」。技を創り上げるつもりで思考力を創り上げていく。技を磨くようにして思考力にも磨きをかける。学生時代からこのような心構えで、自分の頭脳を磨く研鑽を重ねてきたつもりである。その過程で大きな関門の一つと位置付けていたのが『資本論』を読むことだった。知識を得るために読むという読み方ではなく、弁証法的な思考力を身につけるという、演習的な読み方である。当時経済的な事情からアルバイトというか、肉体労働を避けられない環境にあったのだが、考えようによっては、肉体労働の現場は「労働力の対象化」の一過程だから、『資本論』の理解を実践的に深める演習の場でもあった。労働の現場に立った時、そのことに直ぐに気付いた。それで働きながら労働現場をそれとなく見ていた。そのような視点をもって働いていると労働現場も興味深く過ごせるのである。


 「技」としての「思考」は、生まれつきもっている運動神経とか頭の回転を測るIQとは次元が異なる。その点では、武道(武術)の世界でいうところの「技」が運動神経の良さに左右されるわけではない点と通じるところがある。いわば後天的に自分で創り上げるところの「技」であり「術」である。足〔短距離走〕が速ければマラソン長距離走〕も速いというわけにはいかないことにも通じるところがある。大学入試程度の問題でいくら高得点を挙げて難関大学に入ったところで、学問の専門分野における研究者に向いているわけではない。難関大学には合格しても、研究者には向いていない者が多数存在するのは、「技」としての「思考」を自ら磨くという発想を持っていないからである。専門分野における研究力は大学入試とは全く次元の違う世界で、直接対象に向き合わねばならない。全く未知の世界でじっくり腰を据えて対象に向き合う胆力の問題でもある。

 

  「思考」を「技」と捉えたのだから、「それができるまでやる」ということでもある。「できるまで」は「分かるまで」でもあり、「謎が解けるまで考える」ということでもある。つまりこれで良しと思えるまでやるということである。「これで良し」と思えるのも実際には本人のレベル次第なのだから、様々なレベルがある。自分でレベルというものが分かるかどうかという問題を含む。そしてレベルは1から10まであるという側面がある。ややこしいことを書き始めたかも知れないが、分かる人には分かり、分からない人には分からない内容に入っているのである。
 蛇足になるが、研究は謎解きなのだから、そこに効率を求めるのはそもそもお門違いだということである。日本の研究レベルが落ちてきた(特に文系)のはここに一つの理由がある。