高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

「金文語彙索引」を作成することによって得たもの

 「金文語彙索引」を全て手仕事だけでやったことによって、金文の語彙を「身体が覚える」という趣旨で書いたことがあるが、翻って考えてみればそれ以外にも色々得たものがあることに気付いたので、今回改めて書き留めておくことにする。

 この作業は一見単純作業のように見えるので、バカにされがちだが、語の機能を探りながらやったことのある者にしか分からない得難い利点がある。直ぐに浮かぶだけでも3点挙げることができる。

 1、言語を分析することが習慣化し分析力がどんどん付いて行く。
 2、言語を総合的な観点から見る目が養われる。
 3、他の人が作った別の語彙索引を見るのも楽しくなり、そこから必ず何かを得ることができる。

 2の点について補足しておくと、語彙索引として仕上げるわけだから、関係テキストに出てくる全ての語彙の用例カードを作って仕上げるので、いつの間にか言語を総合的な観点から見る目が養われるのである。仕上げるまでの行程はとてつもなく遠くて長いので、そのつもりで。
 一言多いようだが、語の機能に関心をもつことなく、単なる業績作りと思って機械的に作業していた人はこの限りではない。

 3の点について、私自身の経験を記しておくと、「詩経」や「楚辞」をはじめいわゆる古代文献の索引も興味深く見るようになった。また近年は、インターネットで「語彙検索」ができるようになり随分重宝するようになった。例えば、十三経や先秦思想だけでなく、唐代の詩人の詩を読む時も、全唐詩のテキストにおける語彙検索が容易にできる。私が愛用しているのは「寒泉」。例えば杜甫の詩を読んでいる時、或る語が重要な鍵を握っていると感じたら、その語の用例を検索してみる。システムは全唐詩の全テキストから膨大な用例を瞬時に集めてくる。何十どころか何百という用例をも瞬時に集めてくる。こんなことは私の若い頃はありえなかったことで、某大学の中文の院生が「全唐詩」の用例をしらみ潰しに当っている話など、友人から伝え聞いたものである。そんな不便な時代のいわゆる力仕事としての用例調べと較べれば、今は全く何の苦労もなく用例が目の前に現われる時代になっている。そしてそれを目の前にしてじっくり用例の検討に当たり始めるということが可能になった。(あくまで可能になったということであって、実行するかどうかという問題はある) たとえ検索結果の量が膨大なものになっても、そこから進むべき何らかの道を見つけることができるので、怯むということはない。これも上記の利点の一つに加えてもいいかも知れない。だがそれとは逆に、コンピュータの力に頼って検索するだけの人は、膨大な用例集を目の前にして途方に暮れる人がほとんどではあるまいか。残念なことである。

 「語彙索引」を仕上げたことのある者は、いつの間にか身につけた習性により、極自然に語の用例の分析を始める。そしてそこから何かしら重要な情報、辞書の類には載っていない、「意味」以外の何らかの情報を感取するのである。この語は詩の中ではこんな風に使われるのかという新鮮な発見があるのでとても楽しいし、語の意味を列挙した辞書だけを見てウンウン唸っても何も出てこない情報が、語彙の用例を分析的に読むことを通して得られるのである。私の場合、この作業をほとんど無意識に、つまり条件反射的にやっているのである。
 杜甫の用例を検索した後は、同じ要領で同時代の李白の場合はどうなのかを知るために、李白の詩における用例を検索してみる。次いで同時代の他の詩人の場合はどうかというように拡大していく。やったことのない人にとっては大変な作業に思えるだろうが、慣れてくるとさほどでもない。要はそのレベルに到達するまで粘り強くやるしかないということである。