高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

思い出すことなど(3)

 大学に進学するのを父親から反対されたことについては、以前書いたことがあるが、実は高校に進学する時も反対され「〔室町に〕丁稚に行け!」と言われたのだ。ろくに勉強もしないで某運動部に精を出していた頃なので、返す言葉もなかったのだが、新聞配達のアルバイトを見つけてきて、これで何とか進学できる見通しがたったと思っていたところ、突然数学の由良先生から京都市の数学大会があるので、予選をやるから君も来なさいということになった。クラスには私よりもできる秀才が何人もいるのに、なぜ俺なんかに声をかけるのか? レギュラーに定着して調子を上げていた時だったし、春の京都市大会で優勝したチームでもあったので、あまり行きたくはなかったのだが、どうせ1回で落ちるだろうと思って参加した。だが蓋を開けてみるとどういうわけか秀才たちが軒並み落選して、私が残るという思いがけないことが起きた。先生はあと3日やって代表3人を選ぶという。ここまで来たら一つやってみるか。だが部活の練習時間が減るのが気になる、という感じだった。結局2番手で代表に選ばれてしまった。
 本大会では慎重になり過ぎたため思っていたほどにはできず、大いに悔やまれたが、表彰式を待っている時に引率の船越先生がやって来て、私の方を見ながら「うちの学校から2位になった奴がいるんや」という。それなら〔トップだった〕藤井君だろうと思ったので、「俺はだめだったが、やっぱりあいつは大した奴だなあ」と思っていると、先生は「それが意外な奴やねん」とにたにた笑っている。意外な奴なら俺のことではないか。そして成績を聞いてみると珍しくノー・ミスだったことが分かった。そしてもっと驚いたことは、藤井君が入賞するどころか遥か圏外の成績だったことだ。その時私が思ったのは、世の中一体どうなっているのだ? 俺みたいな者がこの程度の成績で表彰されてもいいのだろうかと、世の中おかしいぞと、恥ずかしくなってきた。
 夏の大会は準々決勝で宿敵のライバル校と対戦し敗退してしまった。夏休みが終り部活も引退ということになったが、どういうわけか急に成績が上がり始めた。部活をやっていた時間が空くようになり暇ができたことはできたのだが、あまり勉強に熱心になれなかったし、頭がさほど良いわけではなかったので自分でもどうなっているのか分らない状態で狐につままれるような気がした。「どういうわけか」というのは決してとぼけているのではなく自分の実感を書いているだけで、「どういうわけか」というのは、あるいは私の人生の中で時々忘れた頃に起きる現象のような気がしている。多分「自分みたいな大したことのない人間が」と思っているのだと思う。父親から一度も褒められたことがないのでそういうことになるのかも知れないが、よく分らない。それでも成績が良くなったために局面が変わったのは事実で、余裕をもって高校に進学できる位置に上がった。進学に反対していた父親も何も言わなくなり、どうやら進学できそうな雰囲気になってきた。だが部活がなくなって空洞になった時間を埋めるべく、今度は好きだった音楽に熱中するようになったのだが、この件はまた別の機会に。まあ意外にすんなりと進学できたような気がするが、高校に入ってみると秀才たちの犇くクラスに放り込まれてしまい、息苦しくなったことが痛切な思い出として残っている。彼ら彼女らが私よりも遥かに先を自信満々に歩いて行く先輩のように見えたものである。

 実は7人きょうだいの一番下なのだが、父親54歳の時の子だったこともあって、高校への進学に反対されたのは私だけである。そういうこともあって、高校を出たら働くということになっていた。高校2年生から急に読書するようになったのは、社会人になったら本を読む時間もなくなるだろうから、今のうちにしっかり読書して人格も磨いておかねばならないと思ったからである。当時の私は自分でも自覚していたほど幼稚で、同級生からも時々からかわれるほどだったので、もっと大人にならねばならぬと思っていたのである。
 ところが、当時色々出ていた「読書のすすめ」の類を読んでいるうちに、少々読書に目覚めるようになった。そして『読書の伴侶』(創文社)という書物に出会って、旧制高校的な教養人の世界に触れることとなった。何かやり出すと熱中するところがあって、柄にもなく「旧制高校」的な教養人の世界に淡い憧れを感じるようになったのである。いわゆるインテリの世界など私とは縁のないはずの世界だったのだが、私自身の風向きが少し変わりはじめた。そしてその延長上に出会ったのが角川文庫の和辻哲郎孔子』である。薄い冊子のように見えたので、国語の苦手な私にも読めそうに思ったのだろう、ちょっと背伸びする感じのわくわくした気持で買って家路を急いだ。和辻哲郎孔子』には一言でいえば学問的な感銘を受けたといっていい。学問というのはこんな凄いことができるのかという、生まれて始めてといってよい知的興奮を覚えたのである。「こういう学問をやってみたい。」という熱烈な感情が湧いてきた。私の親友も読んでいたようだが私ほどの熱い感情にならなかったようだ。彼は校内でも指折りの秀才であり吉川幸次郎が好きでもあったので京都大学を目指したようだが、私の場合、落第すれすれの成績不良者であったし、京都大学は全く想定外の大学だった。何よりも家を継いだ形の兄の家に居候している状態から脱出するために、つまり経済的にも自立するために先ず京都を離れることが喫緊の課題だったのだが、複雑な事情が絡むのでこの件はここまで。それよりも私の心は和辻『孔子』の学問世界に強い憧れを抱くようになった。和辻『孔子』は原典批判というアプローチになるのだろうが、和辻の研究方法をもっと知りたいと思って、随分後になってからだが「ホメーロス批判」を読んだこともある。和辻の創見というよりも、ヴィラモーヴィッツ・メレンドルフやギルバート・マレーらの仕事の紹介ということだったようだが、和辻の著書がきっかけで、古代ギリシア神話の世界やホメーロスにも関心をもつようになったと記憶する。それが後に、文語的な口頭言語である「雅語」の問題を具体的に考える契機になったのだと思う。