高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

内田光子 モーツァルト「ピアノ協奏曲13番」

 内田光子モーツァルト「ピアノ協奏曲」を聴いたのはこれが3曲目である。この人の演奏は聴くたびに発見がある。そしてその演奏の仕方に舌を巻く。今回は20番とも25番とも曲想の違う印象があった。この曲はいくぶん軽快なパッセージが特徴になっている。それでいかにもモーツァルトを聞いているという気分になるのだが、しかし逆にいえばその分前の2曲の記憶を残しながら比較して聴くために、やや印象が薄くなりやすい。だがそんなことはなかった。特に第2楽章。何でもないところだが、ゆったりとしたアルペジオに乗せてメロディーを弾くところ。メロディーを弾く右手はやや強い音でしっかり弾いている。左手はそれに「伴走」するようにして進んでいく。何でもないと言えば何でもないのだが、左手の音の響きが実に優しい柔和さに満ちている。右手を弾く人と左手を弾く人と二人が連弾しているような趣きがあるのだ。左手の演奏者の優しい導きに従って、右手のやや若い演奏者がのびのびと軽やかで時には力強いメロディーを弾いている、という風情である。何よりも左手の単純なアルペジオがこの上なく美しい。目立たないように抑えて弾いているという弾き方なのに、その音が実に温和で深い音を湛えているのである。この一人二役のような演奏には本当に驚いてしまう。なかなかこんな風に演奏できるものではない。右手も左手も同じ演奏者であるから、同じ音質、同じトーン、そして同じ息づかいで弾かれるのが普通であるし、調和的で自然な印象を受けると思うのが一般的であろう。だが、内田のピアノは一人二役とでもいうしかない全く次元の異なる演奏レベルになっていると思われた。こうした演奏がなぜ可能なのか? 聞き終わってから最初に自問したのがこれである。

 申し遅れたが、この演奏は内田自身がオーケストラの指揮をしている。独奏者自身がオーケストラの指揮をしながら演奏するというのはどういうものなのだろうか? 曲想全体を自分の世界で描き出すまたとない機会であるのは確かであろう。そしてその中に自分自身の独奏を融け込ませるという役割もある。ここにすでに一人二役の演奏というか演技というか、そういう頭ができているはずである。そうした中で弾くピアノの独奏部分にも、一人で弾きながら時には自己分裂(分身)をして二人になることもあるのではないか。それは指揮者として曲に求める必然的な動きだと思われる。それを実現する腕をもっているかどうかという大きな問題があるのは確かだが、内田ほどのピアニストになると、それをいつの間にか自然にやってしまうのではあるまいか? しかしそうであるにしても、どうしてそのようなことが実現してしまうのであろうか? ここまで来て改めてこう自問をしたが、最初に発した時の意味合いとは少し異なってきた。
 ここまで書いてきたことから分かるように、演奏者は一人でありながら、時には二役を兼ねる。その時想像力で自己を別々の人格に分裂させているのである。そして身体も別々の人格になって動いている。これは相当な訓練というか修練を積んではじめて実現する身体術である。そしてこのような身体術は、日本に伝統的にある武術の身体術に通じるものがある。私の連想はこのように武術の身体術にまで及ぶことになったが、このような思考がどこまで実際的か自分では分からない。ただそのように考えるしか説明のしようがないのである。

音源は下記のとおり。
Mozart Piano concerto No.13-1M (1/3) Mitsuko Uchida Salzburg Camerata Academia