高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

007雅語の普遍性と中国語【甲骨文の誕生007】

  文字とは何か?──最古の文字とは?(7)

     雅語の普遍性と中国語

       金文に刻られた祭祀言語
 前回は、甲骨文で書かれた卜辞が占卜という儀式の時に発せられた言葉を記録したものである、ということを述べました。遠く新石器時代から行なわれてきた儀式としての占卜ですから、その場で発せられる言葉にも一種のスタイルがあった。つまり文体があったということを述べました。その決まった文体を記録したものが卜辞であったということです。このような儀式における文体は、次の西周王朝にも見ることができます。それが金文です。
 金文というのは青銅器に刻られた文字という意味です。また金文を銘文ということもあります。文字が刻られた媒体に注目した言葉が金文、刻られたこと自体に注目した言葉が銘文です。金といいますといわゆるゴールドの意味の金を連想してしまいますが、ゴールドの方は当時まだ広く知られていなかったようなので、特にゴールドだけを示す言葉もなかったものと思われます。卜辞には「金」という文字自体が出てきません。ただこのゴールドが全く知られていなかったかいいますと、殷王の墓から金箔が少しだけ出土していますので、知られていなかったわけではありません。しかし非常に珍しい金属だったようです。いわば殷周時代におけるレアメタルということになります。
 それで我々が銅と呼んでいる金属を当時は「金」と呼んでいたのです。これが西周時代から春秋時代くらいまで続きます。青銅器の銘文には「金」という語が出てきますが、「王賜金百寽」(王 金百寽を賜ふ)というように、表彰する際に与えられる物つまり賜与物として登場します。そして与えられた臣下はそれで青銅器を作り記念とするわけです。その青銅器を作る時に用いられるものが「金」だったわけです。我々が呼ぶところの「銅」の意味に使っていたと言っていいのでしょうが、いわゆる青銅器時代ですからまだ色々な金属が用いられる時代ではありませんでした。ですから漠然と金属そのものを意味していたかも知れません。時には「赤金」と呼ばれることもありました。「金」と呼ばれた銅で作った青銅器に記念のための記事を刻っておく。そして氏族の祭祀の時に青銅器を持ち出してきて祖先を讃えるということをやっていたわけです。ですから青銅器も祭祀儀礼の時に用いるものです。そしてそこに刻られている文章にも一定の文体があります。西周の銘文を少しだけ見ておきましょう。

 隹九月既生覇辛酉、在匽。侯賜貝金。揚侯休、用作白父辛寶尊彝。萬年、子々孫々、寶光用。 大保。
  (隹九月既生覇辛酉、匽に在り。侯 に貝・金を賜ふ。侯の休[たまもの]に揚[こた]へて、用て白父辛寶尊彝を作る。 萬年ならんことを。子々孫々、寶として光用せよ。)大保

 字形は専門的な観点からすればもう少し忠実に書かねばならないところもありますが、今は説明のために使う例文ですので、その点ご容赦下さい。説明もあまり詳しくしません。西周青銅器の銘文の場合も、卜辞の場合と同じように日付から入ります。「隹九月既生覇辛酉」が日付です。「既生覇」は1ヶ月のうちの第3週を意味する言葉で、こういうものを月相と呼んでいます。ですから九月第三週の辛酉の日ということになります。場所は匽です。後に燕という字を使うようになりますが、音は同じです。以下、が貝と金つまり銅を賜ったことを記します。そしてそれを記念して青銅器を作り、万年まで子々孫々は宝として用いよ。自分たちの世代だけでなく、後の世代までこの宝物つまり青銅器を大切にして祖先の祭をせよ。こういうことを書いているのです。書かれる内容はそれぞれの氏族に関係のあることを書きますから、様々なことが記されていますが、だいたいこの形式で書かれます。また後には「隹廿又二年。四月既望己酉。」〈庚嬴鼎〉のように年月日を記すこともありますし、「王元年」などと王の何年であるかが記される場合もあります。これが周の紀年形式と呼ばれるもので、何年何月が冒頭に記されます。この点、殷の紀年形式とは違っています。といいますのも、同じ金文であっても殷代末期のものは最後に次のように記します。「在四月、隹王四祀、翌日。」 ご覧頂いてお分かりのように、「王四年」とせずに「王四祀」としています。中国を含めて現在の我々は「四年」という言い方していますので、もともとそうだったのだと思いがちですが、殷王朝では「四年」とせずに「四祀」としていたのです。「年」という文字そのものは甲骨文にもよく出てくるのですが、「甲辰卜、商受年」(甲辰卜す、商は年[みのり]を授けられんか?)のように用いられますように、穀物の稔りを意味する言葉だったのです。その「年」がいわゆる年月の「年」の意味で用いられるのは、西周王朝以降のことです。
 いま紀年形式に焦点を当てて見てきましたが、周の紀年形式では「年月日」を最初に述べ、殷の紀年形式では最後に述べるというスタイルをとっていたことが分かります。これは殷王朝・西周王朝それぞれに固有の祭祀言語の形式をもっていたことを物語るものと思われます。金文にはある程度の韻律をもっていたらしいことは、令・班・大盂鼎・天亡などに押韻の現象があったことが、白川静によって指摘されています。こうしたことからも西周時代の金文が韻律をもった祭祀言語であると考えるのが妥当ではないかと思います。
 西周王朝の銘文は中期からさらに長文化します。これは官職任命式の内容を記した一群の銘文で、この分野では「冊命(令)形式金文」と呼んでいるものですが、他に重要な内容を含んでいますので、この件については後に改めて項目を設け詳しく説明いたします。


       無文字社会にも存在する雅語・文語
 殷王朝の卜辞、西周王朝の金文。この二つの出土資料の言語にうかがわれる祭祀言語的な要素を見てきたわけですが、このような考え方は従来のいわゆる文字学者が取り得なかった視点だと思われます。白川静の圧倒的な影響下で研究を進めてきた私も例外ではありませんでした。何よりも白川は甲骨文の誕生を「文字言語」の誕生のように思っていたわけですから、私もそのような考え方を踏襲してきたわけです。しかし古代中国における文字の誕生という問題を考えているうちに、このような考え方が現実的でないことに次第に気付き始めました。文字は無文字文化に生まれる。このことを考えれば、いきなり「文字言語」が成立するはずはありません。そしてそのようなことを考えている時に、河野六郎氏と西田龍雄氏に出会ったわけです。この二人から得たものは、口頭言語にはどのような民族でも二種類あるということでした。いわゆる日常的な話し言葉と、儀礼や祭祀の際の特殊な言語とがそれです。これを俗語と雅語と言ったり、口語と文語と言ったりしていますが、要は日常の話し言葉とは異なる特別な言語があるということです。卜辞や金文に見るような儀礼の際の言語はもちろんのこと、口頭伝承や歌謡などもその中に含みます。こうしたものを文字で記録するところから出発したのが古代中国の文字の起原です。「文字言語」としてしまったのは、このような言語の存在を想定しなかっただけのことで、雅語のようなものが無文字社会にもあったという知識をもっていれば、そういう考えには行かなかったのではないかと思われます。しかしこの「文字言語」という捉え方が全く見当外れだったかというとそうではありません。「文字言語」という捉え方があったからこそ雅語や祭祀言語という考え方に結びついたとも言えるような気が、今ではしています。甲骨文の誕生を文字言語の創出と考えることによって生じる違和感。これが私にとっての大きなヒントになっていったわけです。

 それでは『文字贔屓』という河野六郎西田龍雄両氏の対談の中から、関係のあるところを抜き出してみることにします。



[西田] これはちょっと面白いと思うのですけれども、文字をもたない中国の少数民族ね。話し言葉しかもたない。しかし、その話し言葉しかもたない民族にも、口語と文語的なものがあるわけです。歌謡には古い文語的なものをもってくる。それは一般の口語の語彙とは違うんだということね。そういうことがあり得るんですね。
[河野] それはぼくは金田一京助先生から講義を受けた、ユーカラアイヌ語と口語のアイヌ語とは違うというのと同じ。つまりフォーマルな言葉というか、みんなの前で祭りをやるでしょう、そういうときの言葉と民衆の普通の言葉とがある。どこでも必ずあるのじゃない、そういうのは。それで、文字ができたとき、民衆の言葉は使わないで、ユーカラ的なもの、あるいは経典の翻訳のこれは口伝てに伝わってきたようなものね、そういうものがあったら、それを文字にする。いきなり文字ができてすぐ書けるというものじゃないからね。
[西田] ところが、西夏文字の場合は、だいたい6千数百字あって、はっきり公布したのは1036年です。ところが、そのできたときに、すでにその中に文語的なものと口語的なものと、両方とも入っているんです。
[河野] そうですか。
[西田] 文語的なものというのは、全く文語でしか使わないようなものですね。口語じゃない。その系統はわからないけれども、西夏語の語彙にはその二つの層がある。それぞれが、見たところは文字の形からはどちらかわからないんです。字形は全く同じ原理で創られていて、表面的には区別できないけれども、その二つが含まれているんですね。(117頁)


 この二人のやりとりに啓発されるところは非常に大きいのではないでしょうか? どのような民族にも雅語と俗語があるという認識は、多くの民族の言語と文字を研究してきた西田氏にしてはじめて言えることです。
 アイヌ語に雅語と俗語があることは先ほどの引用の中にも出てきましたが、比較的入手しやすいものを紹介しておきます。金田一京助アイヌ叙事詩 ユーカラ』の「解説」がそれです。それともう一つ中国の少数民族の納西(ナシ)族についても具体的に述べていますので、これもご紹介しておきます。引用ばかりになりますが、学問的な裏付けとなることですからご了承下さい。

  

文学の起原は、詩だ、散文だ、と喧しく論議せられることであるが、此もアイヌ生活に於て見る限りは、改まつた詞はすぐに律語に収まり、節附けになつて宛然歌の形で表現される。祝儀・不祝儀の辞令、酋長同士の会見の挨拶など、そのほか、日々の祈祷の詞もさうであり、炉ばたの昔譚でさへもさう。況んや神々の長い物語や、祖先の英雄の武勇伝などもみなさうである。甚だしきに至つては裁判事件のやうな騒ぎの論判でさへも雅語で述べられ、吟詠の姿を取るものである。いはゞ、実用の談話以外の言語表現は、皆節附きだと云つてよい。此の事は、意見でも、論議でもなく、たゞありのまゝの目前の事実である。(金田一京助アイヌ叙事詩 ユーカラ』「解説」9〜10頁)

[西田] そうです。そういうところに古い言葉が残っておれば非常にありがたいわけですね。われわれにとって。実際に残っているのもあるんです。いわゆるナシの象形文字を読むときには、口語では読まないですね。やっぱり文語というか、別に伝承された言葉で読む。ですから、ああいう発達した部族ですと、文字をもたなくても、文章語的な表現はずいぶん発達するんだと思います。西夏にもさっきいいましたようにそれがあるんです。西夏には詩と訳しているジャンルがあって、その詩は二つの語彙層から構成されているということがわかってきた。一つは全部が日常と離れたところの、文語というか、書写語なんですよね。口語はたぶん書いていない。その書写語の中に、非常に雅語的なものとより口語に近いものがあって、同じ内容をまず雅語的なもので書いて、それに対して今度は口頭語的なもので書き表す、そういう二つの語彙層がある。その二つを書き並べる文学の一つのジャンルがあったということがはっきりわかったんです。
 そうしますと、雅語的なものも文字を創るときに同時に創ったわけですから、そのときにはもうすでに雅語的なものが成立していたに違いない。(120〜122頁)

[西田]ですから、民族の歴史が古ければ、書き言葉、文語的なものが、必ずしも文字ができてからでないと発達しないとは限らんということですね。文字ができる、できないにかかわらず、どんな民族も文語的なものを語彙の上で弁別し得た。それが民族の儀式を行なう上において必要であった、あるいは文学的な表現のために必要だった。だからそのような言葉の層は文字があるなしにかかわらず発達し得た。そのような事実は、本来は言語の混合に由来して、民族の混合と関連するのではないかと考えています。(西田龍雄河野六郎『文字贔屓』117〜118頁)

 最後の方に「文語的なものの発達」は「本来は言語の混合に由来して、民族の混合と関連するのではないか」という意見が述べられていますが、非常に示唆に富んでいます。これもいずれどこかで関連してくる考え方ですが、今は引用するにとどめとおきます。


       『論語』に見える「雅言」とは
 西田氏は、今引用した言い方以外にも「話し言葉から遊離した文章語」、「文学的な言葉」など、様々な言い換えをしながらその意味するところを伝えようとしています。このような表現の仕方は口頭言語の性質の違いを示すために、研究者の立場から立てた区分ですが、では古代中国においてはこのような言語の違いに対する認識はなかったのでしょうか? これについても従来の研究者はあまり注目して来なかったようですが、俗語とは異なる特別な言語であることを意識した言葉が存在します。それは『論語』の〈述而〉篇に出てくる「雅語」という言葉です。引用します。

  

子所雅言詩書。執禮皆雅言也。(述而)
  (子の雅言する所は詩・書なり。執禮にも皆雅言するなり。)

 孔子が「雅言」するのは詩(詩経)と書(尚書)であると言っています。『詩経』も『尚書』も口頭伝承の形で伝えられてきた古典です。また儀礼を執行する時も「雅言」を用いると言っているわけです。儀礼の際の特別な言葉があったことを示すものです。こうした雅語による口頭伝承のテキスト化が、春秋時代末期の孔子の時代にぼちぼち始まっていたことは、近年陸続と出てきた戦国楚簡からもうかがうことができます。戦国楚簡というのは専門家の間で用いられる略称ですが、これは戦国時代中期頃の楚の墓などから出て来た竹簡のことです。戦国楚簡は竹簡を綴じた書物の形で出土したものですが、そのような形に整理し仕上げるまでの編集過程がその間に介在しますから、テキスト化の時期はおそらく春秋時代後期あたりに想定するのが妥当だと思われます。断片的なテキストということであれば、もう少し遡るでしょう。こうしたテキストの断片を整理し書物の形に仕上げるのは、戦国時代前期から中期にかけてであろうという推定が妥当なところだと思われます。『詩経』をまとめたのが孔子であるという説が採るに足りない説のように以前は言われましたが、このような資料が出てきますと一考の価値があることが分かります。また『周易』と呼ばれる『易』も戦国楚簡から出てきましたが、これも孔子の晩年にようやくテキスト化されたことがうかがわれます。『史記』の「孔子世家」に次のような一節があります。

  

孔子晩而喜易、序彖・繋・象・説卦・文言。讀易、韋編三絶。曰、「假我數年、若是、我於易則彬彬矣。
  (孔子晩にして易を喜[この]み、彖・繋・象・説卦・文言を序づ。易を讀みて、韋編三たび絶つ。曰く、「我に數年を假し、かくのごとくせしめば、我 易に於て則ち彬彬たらん」と。)


 「読」む形態の『易』がやっと手に入った。もう少し若い時に手に入れることができていたらなあという感慨を孔子がもらしていて、『易』が春秋時代末期になってやっと書物の形になったらしいことをうかがわせる資料になっています。この他もう一点だけ述べておきたいことがあります。それは『春秋左氏伝』という書物に古典として引用されるものが「詩(詩経)」「書(尚書)」「易(周易)」「礼(礼記)」に限られていることです。引用されたものが書物の形ですでに存在していたと考えるのは早計でしょう。『論語』にいう「雅言」なるものが存在したわけですから、その雅言でもって伝承されてきたものだと考えるのが、妥当ではないかと思います。もちろんいつ頃からか雅言されたものがテキスト化されたものが出てくるわけですから、そのようなテキスト化の断片はあったものと思われます。しかし書物の形態になっていたかどうか、私は疑問視しています。なぜなら引用される「詩」や「書」が後に失われて伝わっていないものがいくつかあるからです。そのようなものを、魏晋の時代の杜預という人が注を書く時に、「逸詩」や「逸書」と記しています。
 さて、戦国楚簡という新しい出土資料にまで言及しましたので、少しばかり横道に逸れましたが、こうしたことをお話しすることによって、春秋時代後期孔子の時代には文字化された文献がまださほど多くなかった、ごく限られたものだけが文字化されていたらしいということがお分かり頂けるかと思います。殷代に甲骨文が発明され、その文字が西周時代・春秋時代と進んできて数百年もの時間が経過しても、文字が広く普及するまでにはいたっていないことになります。これは文字が生まれても直ぐに文字が盛んに用いられるようになるわけではないことを物語っています。言い換えますと、まだまだ口頭言語の世界が根強く続いていたということです。口頭言語の世界の根強さ。これは世界の文字文化を見渡しても共通しています。漢字だけの現象ではありません。言語を記録する記号としての文字が生まれても、文字が直ぐに普及しないという点では、表音文字だけの文字体系であるギリシアのアルファベータでも同じ経過を歩みます。次にこの件について述べていきます。


       古代ギリシアにおける言語と文字
 古代ギリシアの文字使用についてお話しをするに先立って、古代ギリシア特有の現象があることを先ず述べておかねばなりません。それは文字使用の歴史に400年間もの長い断絶期があったということです。古代ギリシア文化よりもはるか前に、ミュケナイ文明と呼ばれる時期がありました。ここでは線文字と呼ばれる文字が発見されています。線文字あるいは線状文字ともいいますが、英語ではLinear scriptと呼んでいます。線状の文字ってどんな文字だろう? 線を引いて文字にするのか? などと考えるわけですが、実際に文字を見てみますと、いわゆる象形文字です。これが紀元前16世紀から12世紀までの間使われていたのです。しかしその後また文字を捨てて無文字文化に戻ります。そして紀元前8世紀の後半にアルファ・ベータ文字が考案され再び文字の使用が始まります。文字の暗黒時代が400年ほど介在するというのはとても面白い現象です。この現象は何よりも口頭言語の世界というものが非常に根強いものだということを物語っています。
 またアルファ・ベータ文字が考案された後も、文字が直ぐに普及する社会になっていくのではなく、口頭言語の世界が根強く残っていきます。このことは古代ギリシア研究の分野ではすでに共通認識になっているものと思われます。そのことを雄弁に物語るのが『イーリアス』という叙事詩のテキスト化の問題です。『イーリアス』という叙事詩は紀元前8世紀後半の天才的な口誦詩人ホメーロスによってその原形が作られましたが、すぐにテキスト化されなかったのです。アルファ・ベータ文字の生まれた時期と重なるために、それが直ぐに文字化されたかのように思われやすいのですが、『イーリアス』の研究が進むにつれて、そうではないことが分かってきたのです。『イーリアス』はホメーロスの作った原形を継承した口誦集団のホメリダイによって更に表現に磨きがかけられていきます。文字だけの世界ではとうていできないような、口誦文芸ならではの自由でのびのびとした言語世界が繰り広げられているのです。そうした過程を経てテキスト化されるのが紀元前6世紀後半だと言われています。古代ギリシア文化はこの頃からようやく文字をやや積極的に使いはじめる時期に入りますが、そうなるまでの約200年間、『イーリアス』は口承文芸としてのみ展開されていたことになります。ここにも豊かな口頭言語の世界の根強さを見て取ることができます。紀元前6世紀後半といいますと、紀元前5世紀の人ソクラテスが生まれる少し前ということになります。ソクラテスは自ら著作する人ではありませんでした。その言行録は弟子のプラトンによって『ソクラテスの弁明』などの対話篇という形で再現されてはじめて世に知られるところとなりました。この点で、中国の春秋時代後期の人である孔子が自らの著作を一篇も残さず、弟子たちによって口頭伝承された語録が後に『論語』という形でテキスト化されたことと非常によく似ています。古代中国における文字使用の歴史を考える場合に非常に参考になるところがあります。私自身は春秋に入ってから文字が用いられる機会が少しずつ増えていったであろうという想定をしていますが、孔子の時代が一つの境目になるのではないかと考えています。

 さてミュケナイ文字とも呼ばれる線文字Bとギリシア文字アルファ・ベータとの関係に入りましょう。線文字Bよりも古いとされる線文字Aは今だに解読されていませんので、今は横へ置いておきましょう。線文字Bはどこまで読めているのでしょう? 私自身は若干の疑いをもっています。少なくとも中国の甲骨文ほどには読めていないのではないか、という感触をもっています。そこに書かれた内容は「王宮の経済文書や財産目録に偏っている」(『世界大百科事典』)とのことですが、経済文書とはなんのことでしょう? 財産目録とはどのような財産を指しているのでしょう? こういう抽象的な表現しかされていないことからすると、内容の理解がまだ十分でないのに、このような表現の仕方で解釈の始末をつけたように思われます。甲骨文の場合はもっと具体的なことが言えます。そういう点でも解読のレベルが全く異なります。甲骨文の場合は具象化された文字の形でその後も継承されていくわけで、それが次第に略体化されていくという歴史をたどります。ですから、古代中国語を表現する土台は甲骨文の段階でできていた。そういう点で古代ギリシアの文字とは根本的に異なります。線文字Bはどのように言語を表記したのでしょう? 高津春繁「ミュケーナイ文書の解読」(『古代文字の解読』所収)は、「ギリシア語表記にはまことに不向きに出来ている。」と記しています。もう少し具体的にいうならば、「一音節を一文字で出来るだけ書こうとしているために、子音群の表記がしばしば省略され、そのために仮名の場合よりももっと曖昧になっている。」ということになります。一音節を一文字で書くという点に注目しますと漢字を連想しますが、ギリシア語は一音節が中国語よりももっと多種多様な形態をもつ言語のようですから、中国語のように一字だけでまかなえないということだと思います。そうした複雑な綴り法の約束を高津氏は次のように整理してくれていますので、参考までに掲げておきます。

 (1) 母音の長短は表わさない。
 (2) 二重母音では、第二要素の-u(eu,ou)は書き表わすが、-i(ei.ai,oi)は、語頭ではaiは特別の文字で表わすが、他の場合は表わさない。それ故、語末に-ai -oi -eiなどがある時には、-iは表記されず、-ai -oiと書かれているのは-ai -oiではなくて、-ais -oisのsが省略されているのであるらしい。
 (3) iの次に母音がある時には、i-ja-te=iatēr「医者」のように、綴りの音をヤユヨの系列の文字で示す。uの場合も同じ。
 (4) この音節文字は少くともt,d;k;q(?);p;z(?);m,n,r(l);s;j,w(jは音声符号と同じく、半母音のi)の系列を有する。それゆえ、これではt,th;k,g,kh;p,b,ph;kw,gw,kwh;r,lのギリシア語では不可欠な区別は出来ない。zに関しては、これは語源的にそうと考えられるだけで、仮りのもので、その正確な音価は不明。
 (5)ps ksはpa-sa,pe-se;ka-sa,ke-seのように同じ母音の文字で表わす。
 (6)s,m,n,r(l)は語末或いは他の子音の前では表記しない。従ってこれはギリシア語としてはまことに曖昧な表記法となる。例、ka-ke-u=chalkeus「鍛冶屋」、i-jo-te=iontes「行きつつ」、pa-ka-na=phasgana「剣」。
 (7) 語頭のs+子音は表記しない。pe-ma=sperma「種」。語頭のwも同じか。rijo=wrion。
 (8) 子音群は同じ母音をもつ文字を重ねて表わす。ku-ru-so=chrÿsos「黄金」。
                                                      (273〜274頁)


 線文字は象形文字ですからそれが表意文字の場合もあります。そしてその表意文字をつなぐ音節文字も象形的な表音文字ですから複雑でややこしいわけですが、それだけでなく、今見てきたように表音文字としても不十分な表現力しかもっていなかった。つまり書記システムとしては未熟極まりないシステムであったということになります。これがやがて用いられなくなってしまう最大の原因であることが容易に推測できます。ギリシア語に最適な文字体系は、紀元前8世紀後半に考案されたアルファ・ベータ文字を待たなければ解決しなかったのです。
 アルファ・ベータ文字は北方セム語系のフェニキア文字を改良したものです。元になったフェニキア文字は母音を表記しない文字体系でした。このような文字体系はセム語系統の言語ならさほど支障を来たさなかったのかも知れません。しかしギリシア語は母音の種類が多いので母音を表わせないのでは書記システムとして使いものにならなかった。そこで彼らが採った方法は、フェニキア文字の中にギリシャ語を表現するには必要のない文字が入っているので、その5つの文字を母音表記のために転用したのです。こうしてギリシア語を表記するのに最適な文字が出来上がりました。文字というものは言語を記録する記号ですから、その言語に合った文字体系が必要です。文字を使用することが必要になった言語は、その言語を表記するのに最適な文字体系を求められます。日本語を表記する場合も漢字だけしか使わない段階では十分な書記システムができませんでした。漢字を極端に略体化した平仮名や漢字の一部を文字に転用した片仮名が考案されたことによって、日本語に適した書記システムができあがったわけです。こうして見てきますと書記システムとしての文字体系というものは、一筋縄にはいかないものであることが分かります。個々の言語に最適な文字体系は個々の言語の特徴に応じて作られるものであることが分かります。では中国語の場合はどうでしょう? 次にこの問題に入ることにします。


       中国語は借字という手段で表音機能を担わせる
 今まで見てきた日本語やギリシア語は中国語と比べてどこが違うでしょうか? それは同じ語彙の一部分が前後の語彙との関係で多様に変化する点です。これを文法用語では「活用する」などと表現しています。日本語の場合「用言」と呼んでいるものがそれです。動詞・形容詞・形容動詞は後に続く語によって語尾が変化します。また用言に付属して用いられる助動詞も同様に変化します。ふだんは一々意識しないで使っていますが、外国語として学んだり、あるいは外国人に教える立場に立つとこの特徴が前面に出てきます。日本語の他に英語などの欧米語にも活用があることは学習の過程で痛いほど分かっているでしょう。このような言語の形態を類型的に分類する分野が言語学の中にあります。この類型学に従って中国語の特徴を押さえることにしましょう。
 中国語は言語の類型的分類では「孤立語」に分類されています。辞書的な定義を引きますと、孤立語とは「単語は実質的意味だけをもち、それらが孤立的に連続して文を構成し、文法的機能は主として語順によって果たされる言語」(『大辞泉』)のことを言います。それに対してインド・ヨーロッパ語は屈折語に分類されます。日本語や韓国朝鮮語膠着語に分類されます。トルコ語膠着語になるそうです。『大辞泉』の説明が簡潔で分かりやすいので引用しておきます。

  屈折語=単語の実質的な意味をもつ部分と文法的な意味を示す部分とが密接に結合して、語そのものが語形変化することにより、文法的機能が果たされる言語。インド・ヨーロッパ語やセム語族の諸言語など。
  膠着語=実質的な意味をもつ独立の単語に文法的な意味を示す形態素が結び付き、文法的機能が果たされる言語。フィンランド語・トルコ語朝鮮語・日本語など。
  抱合語=さまざまな要素を連ねて、内容的には文に匹敵するような長い単語を形成しうる言語。エスキモー語やアメリカインディアン諸語など。
  孤立語=単語は実質的意味だけをもち、それらが孤立的に連続して文を構成し、文法的機能は主として語順によって果たされる言語。中国語・チベット語タイ語など。

 屈折語のように語形が多様で微細に変化しますと、その変化を表現するための専用の表音文字が必要になってきます。アルファベット文字が必要になるゆえんです。また膠着語に分類される日本語の用言や助動詞を表現するために、漢字を一々用いるのでは相当面倒です。そこから表音専用の文字が考案されるという歴史をたどりました。文字体系が口頭言語を忠実に記録することを求める以上、当然のことです。この点、中国語は事情が全く異なります。語形や語尾の変化がなく、主に語順によって文法的機能を果たすわけですから、多様な音の変化を示すための文字は特に必要としません。ですから象形的な文字の段階でも、必要な場合に文字を借りてくれば表音機能を代用させることができる。いわゆる借字という手段です。借字が甲骨文の中にあまり多くないということが、中国語の特徴を雄弁に物語っていると思います。
 ただ甲骨文は占卜の記録ですからその場で用いられる祭祀言語を記録するという場面に限られています。いわば特殊な言語を記録するだけです。しかし文字の使用が次第に拡がり、記録する内容も拡がっていくとともに、記録する語彙も増加していきます。その時にどのような方法で表記するか。次に問題になってくるのは造字の問題です。漢字は甲骨文に始まり、ついで字形がそのまま金文に継承され、そして戦国時代の「古文」と呼ばれる文字へと受けつがれていきました。文字体系は基本的に継承されているのです。ですから表記すべき語彙の増加に対応する造字の方法は甲骨文の中にあります。ただし、甲骨文・金文を見たことがない許慎が『説文解字』において立てた六書という文字構造の分類を、甲骨文の構造にそのまま当てはめるのは矛盾が生じます。許慎の立てた象形・指事・仮借・会意・形声・転注というカテゴリーはどういう理由で6つにしたのでしょうか? このカテゴリーが後世の文字学者を悩ませつづけた罪深さは計り知れないものがあります。甲骨文はそれが無文字社会の口頭による祭祀言語を記録するために生み出されたことを念頭において、文字構造を考えなければなりません。この問題については講義の最後に扱うことにします。今は甲骨文の段階で文字体系を備えたのは中国語とい言語の特徴によるものだということがお分かり頂ければ十分です。

   → 文字とは何か?──最古の文字とは?【甲骨文の誕生001】
     http://mojidouji.hatenablog.com/entry/20110505/1304596911