高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(その2)

三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(その2)
     主体的表現と客体的表現
 三浦つとむ『日本語はどういう言語か』について書きかけておきながら、前置きだけで終わっていた。言語過程説とソシュール言語学とは対立関係にあるものではない、ということを言っておく必要があると思ったからである。今日は、主体的表現と客体的表現について簡単に述べておきたいと思う。三浦はこれについて述べるに当たり、「絵画と言語との共通点」から入る。絵画の場合にも主体的表現と客体的表現とがあるということを、挿し絵を巧みに使って説明していくのである。つまり描かれたもの(対象)とそれを描いた作者とが絵から読み取れるということを述べるわけである。更に言い換えると、作者は、描こうとした対象だけを描いているつもりでも、否応なしに作者自身も描かれる結果になっているということである。その描こうとした対象そのものを客体的表現と捉え、そこから読み取られる作者自身に関する情報を主体的表現と捉えるのである。いまこうして書きながら、私はベラスケスの『宮廷の侍女たち』を連想した。この絵については色々な人が論じているが、フーコーの『言葉と物』の冒頭に使われて有名になったので、ご存知の方もあるだろう。フーコーも画家の視点・立脚点に注目していたが、三浦の説明からすれば主体的表現ということになる。最近流行りの言葉でいえば「立ち位置」が表現されているということにでもなるだろうか。
 絵画でさえもこの二つの表現が読み取れる、まして言語であればなおさらそうだというふうに進んでいくのである。これは昔からいうところの「文は人なり」という捉え方に通じるところがあるが、そこで終わらせてしまうと漠然としたままになるので、これを更に細かく分析していくのである。一々例を挙げるのは大変なので、後は読者に任せるが、どのように進めているのかということだけ記しておくことにする。
 名前を示す名詞、状態を示す形容詞・形容動詞、動作を示す動詞、さらには助詞・助動詞というように文法論のように進行していくが、学校で学ぶ橋本文法のように言葉の意味を考えるというやり方ではなく、言葉を表現する者の頭の中でそうした言葉がどのように認識して表現されるのか、という認識と表現の過程をたどってみる、というやり方で進められる。そうしてそのような過程の中に客体的表現と主体的表現とが絡んでくる、というように細かく分析していくわけである。これがとても面白いのである。
 学校で習った橋本文法の場合、意味を考えるところで終わっていたが、三浦の言語論ではさらに分析を深め、認識と表現の過程を考える、つまり言葉が発せられる過程を表現者の立場に立って追体験してみるというやり方である。この本を読んだ時、私は目から鱗が落ちる思いがした。その時中文専攻ではあったが、ちょっと言語学をやってみたくなったほどである。ただ私の経験を述べておくと、これを理論的な面白さを味わうだけで終わってしまうと、文学の研究に活かすことはできない。以前にも書いたように、言語学は役立てるために読むのである。次は読者自身が自分を育てる番である。自分自身で言語表現を分析する習慣をつけ、自家薬籠中のものにしていくと、これが文学の読みに活かされるのである。もちろん、日常的に用いる言語表現にも活かされるのは言うまでもない。このような分析を常態化して継続し、分析を積み重ねていくことによって、分析力のみならず、自分が文章を表現する時にも非常に有効に働く。これは私自身の経験から言っていることであって、どこかの誰かが言ったことを紹介しているわけではない。
 前回書名だけを挙げた吉本隆明『言語にとって美とはなにか』は、文学作品の分析に活かすために更に深く分析して、品詞別に主体的表現と客体的表現との度合いが異なるのを、概念的なグラフにしているのが大変参考になる。ただ吉本の場合、時枝・三浦の用いた主体的表現と客体的表現という言葉を用いず、「自己表出」「指示表出」という語によって捉え直している点が卓抜だと思う。これは単に別の言い方にしたかったということではなく、文学作品というものは、作者という個性が強く表現されるものだから、作者の「自己」がどのように表現・表出されるかという点に一層強い関心を向けるための措置なのである。吉本の『言語にとって美とはなにか』という書物は非常に大きなテーマをもった表現論であるから、他にも述べておきたいことがある。それは文学研究に役立つ問題でもある。いずれまた別の機会に言及することになるだろう。
 余談になるが、三浦つとむ『日本語はどういう言語か』を読んだのは大学1回生の終り頃だったと思う。少しずつ読解力が出てきた頃である。高校時代からの友人に勧められたのがきっかけで読み始めた。当時その友人の影響下にあった私は、彼から吸収できるものは全部吸収しようとしていたのだと思う。そして三浦の書物を読み終わった頃(その後何度も読みなおしたが)から、その友人の影響下から少しずつ脱していき始めたと記憶する。ただ、その本は講談社のミリオンブックスとして出たものだが、その時品切れになっていた。また再版未定とも聞いていた。だから普通は手に入らないのだが、京都の三月書房(寺町通り二条上る)なら置いているという情報もその友人から得たので、行ってみたところやはり置いていた。この三月書房は今も健在で、小さな書店なのに良書ばかり置いていることで、昔から有名な書店である。今も昔も、文学者や学者・インテリ・芸術家たちがよく訪れる。もし知らないと、「京都の大学に通っていながら、三月書房を知らないの?」と言われそうな書店である。

  【三月書房】 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/sangatu/