高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(その1)

 以前、言語学の必要性ということを書いたことがある。その時、ソシュール言語学の重要性について書いた。しかし言語学というのは色々なアプローチの仕方がある。今日書こうと思っているのは、文学作品の研究に役立てるための言語学つまり「表現された言語」を研究するための言語学である。こういう観点から考える場合には、ソシュール言語学はあまり関わってこない。ソシュール言語学は言語一般の本質を考える言語学であって、文学作品という限定を入れると、また別のアプローチが必要になってくる。
 文学作品を研究するための言語学という視点を据えると、それは「表現された言語」を研究する言語学ということになる。「表現された言語」を対象にするわけであるから、広い意味での文学に関する言語学である。そもそも文学と非文学との境目というのは意識しない限りは存在しない。また境目を考えるのと考えないのとでも違ってくる。これは、何を文学と見なすかということに関係してくるので、単純に区別できないからである。別の言い方をすると、言葉を発するという行為そのものがいつでも文学へと変容することがありうるということである。日常の中で詩的な表現をすることは誰でもある。そういうものを文学でないと断定する理由は何もないからである。
 さて今、私が話題にしようと思っているのは、三浦つとむの『日本語はどういう言語か』という本のことである。三浦の言語学は、もともと時枝誠記国語学原論』で展開された言語過程説に則っているもので、それを分かりやすい形で発展させたものである。30年前には非常に幅広く読まれた。その後ソシュール言語学が正しく理解されるようになって、次第に読まれなくなっていった。ソシュール言語学と時枝・三浦の言語過程説とは対立する関係にあるものではないので、ソシュール言語学の評価が高まったからといって、言語過程説の価値が下がったわけではない。しかし現象としてはソシュール言語学の方に関心が高くなっているということだと思う。
 ただ、言語過程説への注目が次第に低くなっていったのには、一つの理由があるかも知れない。それは時枝も三浦もソシュール言語学を批判しているからである。ただしこの批判は、世界中がソシュールを誤解していた時代のことである。だからソシュール言語学といっても、時枝と三浦の説く言語過程説と真正のソシュール言語学が対立しているわけではない。ここのところが意外に世間に知られていないことであることは強調しておかねばならないと思う。ソシュール言語学への批判は、ソシュール名義の『一般言語学講義』に向けられたものであって、実際にはそれを編集したバイイとセシエの言語観に対する批判だと言ってもいい。バイイとセシエが編集したもの(というよりも自分たちの解釈でまとめてしまったもの)が『一般言語学講義』の書名で世に出たことを時枝も三浦も知らなかった。三浦の『日本語はどういう言語か』を文学作品の研究に適用し発展させた、吉本隆明『言語にとって美とはなにか』の場合も同じである。要するに、30年前の日本ではソシュール批判が盛んだったということである。そして今はソシュール言語学が正しく理解されてきた時代である。その時代の変化とともに言語過程説が忘れられようとしているということなのである。今回はこの言語過程説とりわけ三浦が分かりやすい表現で書いている『日本語はどういう言語か』について書こうと思うのだが、かなり長くなりそうなので、今日は前置きだけにしておくことにする。(続く)