高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

グルダのモーツァルト「ピアノ協奏曲20番」そして内田光子の同曲

 先日書いたことだが、「グルダのように上手く弾けないけどやってみる」と言って弾き始めたアルゲリッチの言葉が耳に残っていて気になっていた。それで、グルダ演奏のモーツァルト「ピアノ協奏曲20番」を検索してみた。これまた簡単に出てきた。そして直ぐに興味津々で聴いてみたのである。アルゲリッチの言うとおりグルダモーツァルトはよかった。モーツァルトらしい演奏だと思った。私がモーツァルトの音楽に対して漠然と抱いていたイメージ通りの演奏であった。何よりもピリスの音とは違って自我が強くなく内省的でもない。どちらかと言えば感覚に訴えてくる演奏である。その分余計なことを考えずに聴くことできる。モーツァルトの音楽は純粋に音だけの世界であって、言葉は不要なのだ。しかしモーツァルト以後の音楽にはどこか言葉の世界が入り込んでいる。ベートーヴェンなども初期の曲はそうではないが、中期くらいから言葉の世界がどんどん入って来ているような印象がある。それが嫌いだというわけではない。音楽のあり方が違うということを言いたいのである。
 さてグルダの演奏に戻ろう。グルダの音は軽やかでしかもふわつかない独特の音である。癖がない音といえば言えるのだが、その癖のない音の中に確固とした美意識を感じさせるものがある。イメージをもっているのだ。そのイメージは音で構成されたものではなく、何か色彩のある映像的なもので、その映像的なイメージに近づけるように音を奏でるという感じであった。ここがアルゲリッチと違うところのような気がする。グルダの演奏を聴くのは初めてだが、今まで聴く機会がなかったことが悔しくなるほどの演奏である。
 私の中にあったモーツァルトとはこのような演奏である。パワフルでないが、弱くしかもしっかりと音を奏でていく。弱音のところでむしろ耳を傾けさせるのだ。グルダの聴かせどころはここである。別にピアノ(弱音)で弾かなくてもいいのだろうが、そのように弾くことによって、かえって印象が深くなる。3楽章あるところを4つのファイルに分割していたので、お試しだけでやめるつもりだったが、全曲聴いてしまった。私の聴いたものを下に記しておく。
  Mozart concerto 20 in d, K.466 - 1. Allegro (1of2) Gulda

 同じ曲を別々の演奏家で聞き比べるという昔からある習性が昂じてきた。ふと見ると、内田光子の演奏するこの曲が目に入ってきた。内田光子の音はベートーヴェンに向いている力強い音だったような気がしていたので、アルゲリッチと比べてみて、私の中での位置づけを試みようとしたのである。内田光子のピアノは私の予想に反して実に素晴らしい演奏だった。私の印象に残っている内田の音はアルゲリッチと同様にモーツァルトには向いていないような気がしていたのに、その印象がものの見事に裏切られることになった。もう20年も聴いていないのだから、その間に大きく変貌を遂げたのか、あるいは音楽家として大きくなってきたのか。多分後者であろう。人間は高い理想を持っていると限りなく成長を遂げるものだ。アルゲリッチが克服できなかった軽やかなスタッカートも、内田の演奏では楽々と実現している。グルダの演奏もスタッカートがこの上なく美しく、スタッカートの妙味とでもいうことができると思う。こうして、モーツァルトピアノ曲ではスタッカートをいかに軽く美しく弾くかが最大のポイントであることが分かった。スタッカートの弾き方次第で凡庸にも非凡にもなる。そして内田光子のスタッカートはまた上品で美しいのである。モーツァルトのスタッカートのお手本にしたいような奏法である。かつてベートーヴェンの曲で見せたあのパワフルな音は、上品で繊細な音に変貌を遂げていたのである。楽器の演奏というものは、単なる感性という才能だけで弾くものではなく、一種の身体術でもあるから、稽古次第で変化していくものだということも分かった。内田の演奏を聴いてそのことを再認識した。いや発見した。

 (注)標題を変えた。グルダのことの方が比重が大きいことに気付いたからである。2011.4.17