高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

原発をめぐるとりとめのない想念

 原発の多いのは福島県福井県。どちらも人口が少なく風景の美しいところだ。福島県は第1原発と第2原発を合わせて10基。福井県敦賀が2基、美浜3基、大飯4基、高浜4基で、合わせて13基。原発銀座とも言われている。福島県福井県を合わせると23基の原発がある。全国の原発合計が69基だから、この2県に全国の3分の1が集中している。風光明媚な所に科学技術の生み出した怪物がいる。そして京都に最も近いのが高浜原発である。
 原発事故は2度と起こさせないと言うよりも、起こった時にどうするかを考える方が現実的である。今回の原発事故は、起こった時の対策を立てておくことの重要性を痛感する出来事であった。脱原発を持ち出すのは理想論だが、今の時点では現実的ではなく、夢を語る空想家で終わる。すでに69基の原発が稼働していて、誰もがその恩恵に浴しているのに、脱原発をどのように実現していくのかを、実際の青写真を描かないで訴えているのは現実的ではない。言うだけに終わってしまう。このような理想論を説くのはこれまでの日本人の特徴であり、野党の特徴であった。「できればない方がいいのだが……」ということを言っているだけのことであって、それ以上考えようとしていないのが真相であろう。
 絶対安全だと言っていた原発が自然災害によって事故が起きた。どのような災害が起きても大丈夫だと専門家は言っていた。原発には反対だと言っていた私もいつの間にか、安全であるかのように思い始めていた。というよりも原発の恩恵に浴していて、原発に反対であったことすら忘れていた。原発賛成派に転向していたのである。情けないことである。原発は想定できる自然災害には対応できるものであった。そうした日本の技術力を信じ始めていた。一種の過信である。しかし想定できない自然災害が起きた。想定できないものは想定のしようがないものである。従って防御する方法がないのである。あらゆる防御策を超えてやってくるものが想定外の自然災害である。自然を侮っていたということだろう。これは自然現象というものを予測可能なものと思い始めていたということであろう。人間が自然を支配しているかのような錯覚に陥っていたということであろう。石原慎太郎が発した「天罰」という言葉は場違いの不適切な言葉だとは思ったが、しかし考えなおせば、自然を侮った人間に対して自然が激怒したと捉え直した言葉である。想定外の自然災害を想定できなかった人間どもに対して猛威を振った「天罰」ということになる。今回の大地震と大津波という自然の猛威を見て、私は西周王朝が滅んだ西周末期を連想した。西周末期は度重なる自然災害つまり「天罰」が起きた時代である。『詩経』の〈小雅〉「十月之交」にその時代の様子をうかがうことができる。しかし科学の進歩によって高度な技術を具えるにいたった人類は、こんなことで国が亡ぶことはない。少しずつ復興への元気が出てきている。国民全体が一丸となって復興に向かっている。直接何もできなくても、いつも気にかけている。災害のことを忘れる日は一日たりともない。
 今回起きた災害は確かに想像を絶する非人間的なものだ。波の高さ38メートルにも及ぶ津波などとうてい想定できるものではない。想定外という言葉を否定する力さえ湧かないほどのものだった。一巻の終りとはこういうものを言うのかと思った。しかしそれでも津波対策として築いた高さ10メートルの防波堤があったために、自然の猛威のパワーを多少は殺いでいた。だがこれとても易々と乗り越えて来た悪魔のような波。このような捉え方は日本人の誰もが持った共通認識であろう。しかし今回だけで終わる保証は何もない。災害は忘れた頃にやってくる。今回得た教訓は絶対に大丈夫だと思っていても、万が一の時にどうするかを考えていないと、小事が大事になるということだ。
 原発を今後も使い続けるのであれば、比較的津波の起こりにくい東京も建設候補に挙げるべきだろう。そして遷都ということも検討材料にすべきだろう。しかし本当に原発しかないのだろうか? 残念ながら今の私の手に余るテーマである。