高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

アルゲリッチ演奏、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番

 アルゲリッチの演奏でモーツァルトピアノ曲を聞いたことがなかったのだが、今日はふと思い立って、YouTubeを検索したところ本当に出てきた。凄い時代になった。画面の右上にBS2と書いてあるので、衛星テレビの録画である。こういうことができるのか。画面もかなり鮮明である。
 アルゲリッチモーツァルトはCDでもあまり手に入らないので、モーツァルトのマニア的なファンである後輩に頼んでみたが音沙汰がなかった。以前たまたまモーツァルトの中で最もモーツァルトらしい曲は「ディベルティメント(K136)」だと思うと言ったら、多分イムジチくらいしか聞いていないだろうからということになって、イムジチ合奏団以外の「ディベルティメント」を聞かせるために、いくつもの合奏団の演奏する「ディベルティメント」を自分で編集したCDを送ってくれた。なかなか得難い男である。おかげで様々なモーツァルト演奏に接することができて、はなはだ音楽の勉強になった。どういう形で私の脳裡に残っているのか、知るよしもないが、いつかこの残影が蘇ってくるかも知れない。そうだと面白いだろうなと思っている。いま残影と言ったが、音だから残響ということになりそうなところだ。が、言葉とは面白いもので、「残響」という言葉はこういう場合には使わない。やはり脳裡に残るものとしての残影、音の残影である。これを言い換えると聴覚イメージということになる。この言葉は例のソシュールの優れた概念で、この概念によってはなはだ啓発されるところの大きい言葉である。
 アルゲリッチ演奏の動画は下記の表題がついていた。そのまま記しておこう。
 Mozart Piano Concert no20 K466, Martha Argerich, C Alming NJPO.avi

 さてそのアルゲリッチだが、見ていて少々気の毒になった。アルゲリッチ演奏のモーツァルトはあまり評判が良くないと聞いていたが、今回この録画には演奏前の彼女の姿を映している。「グルダのようにうまく演奏できない。」という言葉を漏らしている。こういうところはできるだけ映さないでいただきたいものだ。そもそも悪趣味である。アルゲリッチモーツァルトを弾くことに苦手意識があることが、誰にでも分かるように撮影されている。こういう演奏前の舞台裏を映している狙いは何なのだ? うまく演奏できないことがプロデューサー自身が分かっているかのように編集するのはいただけない。自分が先が読めることを示したいのであろうか。こういうところは見たくないものだ。あの颯爽としたアルゲリッチの姿だけを見たいのである。しかしモーツァルトがいかにも苦手で、だから演奏される機会も少ないわけがこれで分かった。しかしこれを見た以上は、アルゲリッチの演奏にこちらも集中できなくなる。意地悪な目で見ることになってしまう。しかしよくよく考えると、彼女は、あの名演奏と思われるベートーヴェンを演奏する前でも、実はこういうことを言っているのかも知れないのである。どれほどの巨匠でも演奏前はこういうものである。しかしそういう弱いところを映すのはやはり悪趣味だと思われる。

 アルゲリッチモーツァルトはどうだったのか? パソコンの音響設備は劣悪であるから、聞いたとも言えず、見たとしか言えないので、あまり分かった風なことが言えないが、モーツァルトの曲を弾くには少々力が入りすぎている。緊張感もあるのだろう。アルゲリッチは力強い演奏をするピアニストであるが、モーツァルトの場合はもう少し力を抜いた方がいい。それがどうもうまく行かないといった風に見える。そしてあろうことかこの名手にして、少々もたつくところさえある。力の加減がうまくコントロールできていないところなのだろう。モーツァルトを聴くのは好きなのだろうが、それだけにうまく弾けない自分がもどかしい、そしてますますうまく行かなくなる、そういう具合に悪循環になっているような気がした。名人でもこういうことがあるのか、という不思議な光景を見た気がする。そこにアルゲリッチという人の魅力がかえって増してきたような気がする。また良い演奏ができた時の録画を見たいものだ。名演奏をした時のアルゲリッチの姿を思い描きながら、今日の雑文を閉じることにする。