高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

《陳風》について

 今日は《陳風》「衡門」から読み始めました。この「衡門」はなかなか曲者で、含みのある表現が多いだけでなく、説明がしにくい側面がありました。恋の歌というよりもかなり猥雑な内容であるらしい。「魚を食う」という表現がやはり話題になりました。「魚」が女の隠喩であり、「魚を食う」という表現がそれを踏まえた性的な隠語であることは、前回少し話題になった通りですが、学問的な裏付けとしてどのような知見を根拠にしたものか、ということが気になっていました。この件については実は、聞一多に「説魚」という研究があります。この方面の材料を古今の作品から集めてきたもので、資料集としても一見の価値があります。欠席した人は見ておいて下さい。『神話与詩』という論文集に収められています。今日は旧版『聞一多全集』(一)所収のものを参考に見てもらいました。同じものが大学の文献資料室にあるはずです。なお、『神話与詩』の一部分の和訳が『中国神話』という題で平凡社東洋文庫に入っています。最近また復刊されたようです。
 それからもうひとつ。今日は宿題を出しました。内容は、『詩経』に出て来る「魚」に注目して、「魚」が当時の人たちにどのように見られ、どのように扱われていたかについて分析し整理してくるという内容です。「国風」「小雅」「大雅」「頌」によってもそれぞれ異なるかも知れないということで、それぞれにおいて分析整理してきて下さい。分析することに慣れ習熟することが文学研究には必要です。次回までに仕上げてきて下さい。
 今回は「衡門」だけで随分時間を費やしましたので、次回はその続きからですが、最初に上記の宿題について報告してもらいます。
                         ここまでは、2011.6.4に書いた分。

 (追記)「魚」は「吾」の意味に使われているという愉快な説があるらしい。上古音のことは知り尽くしていると自負する人の説らしいが、そのような解釈は、「詩経」に出てくる「魚」字の全てを検討した上で提示するというのが学問的に必要な手続きである。だがどうもそうではなかったらしい。いわゆる「音通」濫用による場当たり的な解釈である。この件に関心を持った学生の一人が、「詩経」中の「魚」字の用例を全部当ってきた。その結果、「魚」字はやはり「魚」の意味でしか使われていないという結論になったと言う。その通り。自説を提示する前に、それが成り立つかどうか、面倒でも自分で検討する手続きを怠らないという姿勢が必要だということである。批判することが目的化している人の場合、この手続きが抜け落ちてしまうのである。
 こういう初歩的な誤りをする人からの異論や批判が時々あるが答えようがない。極めて初歩的なことから説明しなければならないので、余りにも膨大な時間と労力を必要とするからである。しかもそこからは何も生まれない。このことは分る人には分るであろう。それが見抜けない人は同じレベルか、あるいはそれ以下であるということを意味する。
                    2018.6.7 追記