高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

ソシュールの通時言語学あるいは歴史的言語学

 前回はソシュール言語学を理解するための書物として、丸山圭三郎の3著と相原奈津江『ソシュールパラドックス』について記した。いずれも優れた書物で、文字学を研究している私にとって計り知れぬほどの恩恵を受けた。現在進行中の『古代中国における文字の誕生(仮題)』もこれらの書物なしではなしえなかった。そういう意味で特に記しておきたかったのである。私は言語学の専門家ではないから、ソシュール言語学を専門家のように理解しているわけではない。文字学の研究に活かせればそれで目的を果たしたことになる。しかしせっかくソシュール言語学について言及したのだから、もう一点だけ述べておこうと思う。前回言及したランガージュ、ラング、パロールソシュール言語学の中で最も重要な概念であることは言うまでもないが、他にも重要な点がある。それは共時言語学と通時言語学という言語研究における二つのアプローチの問題である。とりわけ通時言語学は世界中がソシュールを誤解していた時の誤解が最も集中した問題である。コセリウという言語学者がソシュール批判をした時に提示した対案が、実はソシュールが本来述べていたことであったというような、皮肉な出来事も少なくない。しかし今はそのことは置いておいて、中国研究において歴史的言語学と呼ばれるものが必ずしも、ソシュール言語学の成果を摂取しているわけではなく、むしろ誤解されていたソシュール言語学を引きずっている気がすることを一言しておきたい。
 ソシュールによればと書いてみたが、実際には、特にソシュールを持ち出さなくても言えることをここに記しておくに過ぎないのである。それは「言葉の意味は時間が経つと変化する」という単純な命題である。コセリウの著書の和訳に『うつりゆくこそ ことばなれ』とあるがその通りである。これがソシュール批判の代表的な書物として、以前出版されたことがある。和訳本が1981年であるからちょうど30年前のことである。

 なお余談になるが、岩波書店からソシュール言語学関係の研究書か『一般言語学講義』ノートの訳書かが出ると予告されたきりで、一向に出る気配がないのはどういうことなのだろうか? 岩波書店の編集者である互盛央には『フェルディナン・ド・ソシュール 〈言語学〉の孤独、「一般言語学」の夢』(作品社 2009年)という浩瀚な研究書があるが、このような書物を出す人が編集に当たっているのであれば、期待も大きくなる。日本のソシュール言語学は、世界のトップ・レベルに到達しているのかも知れないという予感がしているところである。