高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

漢文訓読の思い出

 新型コロナ肺炎のことが気がかりなのは確かだが、やるべきこと、守るべきことをしっかり実行しておいて、後は日頃できないことを試みたり、時間の関係でやめていたことに打ち込むのも一つの過ごし方である。中文の学生なら漢文の読解力を養うのに絶好のチャンスだと思う。


 私が中文専攻に入学した頃、漢文の読解力を養うのに役立つ本として、小川環樹・西田太一郎『漢文入門』(岩波全書)があった。(洛陽社のものも悪くないと思うが、私は後で知ったため使っていない)この本は当時、京大の教養課程のテキストに使われていたことを親友から教えてもらった。大学生ならこの程度の漢文読解力はつけておいてほしいという趣旨である。講師は西田太一郎。
 立命館に行くと決めると、まだ入試も終えていないのに、古本屋で見つけたこの『漢文入門』を読み始め、1回生の夏休み中には通読を終えていた。その後も難しいと感じたところを重点的に読み返したり、助辞のニュアンスを理解することに努めていた。1回生のうちに『漢文入門』をマスターしておかねばと思っていたからだ。
 2回生になると、中文講読のテキストに『漢書』の「李廣蘇建傳」が使われたが、いわゆる句読点の付けられた標点本をコピーして印刷されたものだった。前述の『漢文入門』でかなり読解力を付けた者にとっては、少々易しいテキストだったので、これだけではいけないと思って、『文選』の李善注を独自に読み始めた。標点本などはどこにもなかったので、彙文堂で宋刻本(淳煕本)『文選』の縮小印刷したもの〔藝文印書館〕を買って読み始めた。いわゆる白文のテキストである。最初は途方に暮れる感じがしたのだがそれも数時間だけで、ノートに写しながら読み進めてみると、句読点を打つ場所も見当が付き、文節毎に挿入される注もさほど難解ではなくなっていった。むしろ注を読むことによって、読みかたや句読点の打ち方が分かるという具合に進んでいくのが面白くて、次第にやみつきになっていった気がする。それでも所々難解なところがあったが、これは専門家でも難しい所だろうと見当をつけた。
 ただ、これでは訓読の仕方を覚えるだけのことで、言語としてどこまで把握できているか、いまひとつ実感が持てなかった。その頃入手したのが、牛島徳次『漢語文法論(古代編)』(大修館書店)だった。「史記」を資料にした非常に緻密で体系的な文法論で、訓読法だけやっていても十分理解できない副詞や助辞のニュアンスを文例によって示されたので、実感的に理解する上でとても役立った。伝統的な漢文訓読という方法は大変有効な読解法だから、ここから始めるのが適切なのは言うまでもないが、それだけでは十分に理解できた気がしないことも多い。件の『漢文入門』には「訓読の利害」という項もあって次のように記されている。
 《すでに習得した人々は、音読によって漢文特有のリズムをとらえていただきたいし、いちいち返り読みをしないでも原文の意味をとらえる練習も望ましい。外国語を学ぶ以上、飜訳なしで原文の意味をとらえることが最後の目標であるからである。》

 目標は漢文を一々返り点を付けないで語順のまま理解することだったから、こうした書物を補助的に読むことは、誰かに教えられるまでもなく当然のことだと思っていたのである。恩師白川静からも、何れは句読点を付けてない白文で読めるようにと教えられていた。少々無謀に見えても、それがきっかけで大きく飛躍する場合がある。

 

 効率を求めるのは事務的な仕事なら当然のことだろうが、学問の場合に当てはまるかどうか少々疑問に思う。学問の場合、効率ばかり求めていると、本来何のためにやっているのかを忘れてしまう。そして効率の悪いことは敬遠するということになる。「学問は真理を追究することではなかったのか?」と言いたくなることがしばしばある。こうなると、肝心な力がいつまで経っても養えないのである。そういう例を数多く見かけるのである。
 色々振り返ってみると自分のたどって来た、効率の悪い泥臭い道がそんなに外れていなかったように思われて、けっこう楽しいものである。
 待っていても誰も教えてくれない。社会に出れば尚更のことである。自分で貪欲に追求するしかないのである。それができるかどうかは、各人の意欲の度合いによって決まる。それだけのことである。手取り足取りしてもらわないとできない者は、色んな意味で子供のままだということである。
 こんなことばかり書いているわけにはいかないので、時々思い出した時に書き留めるという程度にしておきたい。