高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

祭祀言語の記録 甲骨文

     祭祀言語の記録 甲骨文
                         2011.11.20同志社大学明徳館1番教室における講演

                              高島 敏夫

    野生から文明へ

 文字というものがなぜ生み出されたのかという問題は、人類にとって非常に大きな問題を孕んでいます。なぜなら文字を生み出し、それを大勢の人々が使うようになった文化と、文字を使わない文化とでは歴史の歩み方そのものに大きな違いがあるからです。文字を使うことが果たして幸福なことだったのかどうか? という疑問はレヴィ=ストロースが『悲しき熱帯』で吐露した言葉でした。確か、レヴィ=ストロースはそれを〈文明〉と〈野生〉という言い方で分けていました。そして〈野生〉の方を文字を使わない社会あるいは無文字社会という言い方で特徴づけていました。この分類は野蛮と文明という一種の価値観を伴う言い方よりも、はるかに適切ではないかと思います。我々が用いている漢字の「文」という文字がもともと文字の意味を持っているわけですが、そのことを踏まえますと、〈文化〉という語は無文字社会を「文字を用いる社会」へと変化させることを意味します。そしてもっと興味深いのは、この「文」という文字の成り立ちです。「文」の成り立ちは「文身」つまり入墨のことですが、入墨の習俗をもった無文字社会に文字が生まれると、やがて入墨の習俗が喪われていくという歴史をたどります。古代の日本列島は中国から「倭」と呼ばれていましたが、どうも野蛮な国というイメージが強かったようです。それと言いますのは、この東アジア一帯の中で「文身」が最も盛んなのが倭の国であったという意味のことが「魏志倭人伝」に書かれているからです。文化的民族となった我々としてはあまりありがたいことではないかも知れませんが、倭の国を野蛮視していた中国も、殷代にまで遡ると入墨の文化を持っていたことは明らかです。

 随分刺激的なところからはじめてしまいました。今ここで申し上げようと思いましたのは、古代中国で最初の文字が生まれたのがいわば、野生の時代の最後に当る殷代であるからです。厳密に言いますと殷代後期に当ります。この時代は殷墟が都でした。殷というのは便宜的な名称で、甲骨文に残っている名称で言いますと「商」というのが殷王朝での言い方です。商という文字は甲骨文でのように書きますが、この文字にも入墨に用いる針の形があります。

台座に飾っていますので、重要な位置にあったものと思われます。一方の「殷」という言い方は殷を滅ぼした西周王朝からの呼び方です。一種の蔑称と思われますので、使うべきではないという考え方もありますが、長く広く使われてきた馴染みのある言い方ですので、ここでも殷王朝という言い方を使っていきます。
 殷王朝が文字を生み出すほど進んだ文化をもっていたのに、なぜ野生の時代になるのかという疑問を持たれる方もあるかと思いますが、野生の時代そのものと言っているわけではありません。野生の時代の最後の時期という言い方をしています。いわば転換期です。この最後の時期というのは新しい時代に入る直前の時期と言い換えてもいいかと思います。しかしながら野生時代の名残りといいますか、野蛮な風習の残っていた時代といいますか、そういう時代であることも事実です。例えば、王の墓に大量の人骨が埋葬されていますが、頭と胴体とを切りはなして埋められています。首を切ることは我々から見ますと、とんでもない行為ですが、野生の時代には様々な意味づけがされていたのではないかと思います。首を切られるのは、おそらく異民族であったと思われます。また、祖先や神々に対する祭りを行う際に、牛や羊や豚や犬の他に人間をも犠牲に使っています。犠牲に用いられたのが羌族や苗族であることは、甲骨文の用例の中に多数見えることから分かります。




 このような野生あるいは野蛮の時代の名残をとどめる時代に文字が生まれたわけですが、時代が大きく転換していく時代でもあります。さきほど申しました周という国がこの時期に急速に国力をつけてきて、殷を圧倒する勢力を築くまでになっています。殷代末期になると多くの部族が西周王朝に付き始めるのです。その中には殷王朝に従っていた部族も含んでいます。そしてやがて殷王朝を滅ぼすにいたる。歴史的な言い方ではこれを「殷周革命」と呼びます。殷周革命というのは殷王朝から西周王朝に王朝が交替したことをいうので、西周王朝側の論理で「易姓革命」とも呼ぶことがありますが、もっと重要なことは支配の仕方が大きく転換していく時代でもあるのです。今日は詳しくお話しすることができませんが、殷王朝の古代宗教的な支配形態から西周王朝の政治的な支配形態へと転換していきます。それで中国の有名な王国維という学者は、歴史上これほど大きな転換期はなかった、ということを言っているくらいです。支配形態という意味からいえば、そのような言い方になりますが、人々のものの考え方という観点から見ますと、野生の時代から文明の時代へと転換していく時代であったと見なすことができると思います。今日の私のテーマにはこの二つの観点を含むものになっています。


   神との通交の記録 甲骨文

 中国最古の文字は甲骨文です。その前に文字の前身のようなものはあったのだろう、とお思いの方もあるかと思いますが、しかし文字とは何かという概念規定によって話が違ってきます。何か意味を含む記号のようなものを文字だとしてしまいますと、これは新石器時代から龍山文化時代までかなり多数の資料が出土しています。そうしますと何を意味しているのか分からないものでも、文字だということになって、文字とは何かという議論をすること自体に意味がなくなります。文字とは言語に対応したもののはずです。言語に直接結びつくものを文字としないと議論は漠然としたまま進まないのです。こういうことを最初に述べたのは裘錫圭という文字学者です。





 そこで、言語に直接結びついた記号としての文字という話に入っていきます。これは言い換えますと、「言語を記録する記号としての文字」ということです。ここでまた「記号」という言葉を用いますが、象形文字を含みます。ここで象形文字は記号ではない、などと外面的な形にこだわりますと思考が非常に硬直化してしまいますので、この点は注意を要します。私が言いますところの、「言語を記録する記号」の中には象形文字を含みます。言語を記録する記号であるならば、それが象形文字であろうがなかろうが、形にこだわる必要はないはずです。そのことを何よりも物語るのが甲骨文という象形文字です。


 甲骨文とは何か? どのようなものであるか知らない人がないほどよく知られていると思いますが、どのようなことが書かれているかということになりますと、案外知られていないのではないかと思います。今日は時間の関係上、具体的な文をじっくり見ていただくことはできませんので、次の二例だけ見ていただきます。

  (1) 甲戌卜[南殳]貞、今六月王入于商   (注)[南殳]は合成字。
(甲戌卜して[南殳]貞ふ、今六月、王 商に入らんか?)
  (2) 自今至于己酉不雨(今より己酉に至るまで、雨ふらざるか?)
  【口語訳】
  (1) 甲戌の日に、[南殳](人名)が神に問うた。この六月に王は商(都)に入ってもいいでしょうか?
  (2) 今から己酉の日まで雨は降らないでしょうか?

 甲骨文には一種の文体があります。日付と占う人が記され、その後占う内容が書かれます。②の方は前の部分が欠けています。占う内容は王や王朝に関するものが多いのですが、必ずといってもいいほど神意を問う意味の「貞」という言葉があります。これから行なうことの是非や、これから起きる出来事の判断を神に問うわけです。「貞」を省略している場合も同じです。甲骨文はこの占卜という行為の記録です。別の言い方をしますと、神との通交の記録ということができます。甲骨文のことを卜辞と言う場合がありますのは、甲骨文で書かれた内容を端的に表現したものです。そういう特殊な場、儀礼の場で用いられる言語ですから、日常的な話し言葉とは異なります。動物の骨で占うという風習は、中国では新石器時代から広く分布していますので、無文字時代から継承されてきた儀礼的な風習です。その時に用いられる言葉も一種の決まりやスタイルがあったものと思われます。

    言語と文字との関係──甲骨文に見える表音文字(借字)

 さきほど文例として挙げた二つの甲骨文に表音文字があったことに、お気付きでしょうか? どちらの文にも入っています。例えば①では「今」「于」、②では「自」「今」「于」「不」がそれです。白川説によりますと、①の「今」は青銅器の蓋の形、「于」は曲がった形を作るための添え木の形です。②では「自」は人の鼻の形、「不」は花の萼の形。これらは象形文字ではありますが、字形と意味とが結びつかないものばかりです。では何を示しているのかと言いますと、音を示しているのです。音を示すことによって意味を表現するというワンクッションある示し方です。こうした言葉はもともと形のないもの、形で表わしようのないものです。ですから象形でもって直接意味を表わすことができない言葉たちなのです。そこで同じ発音の別の語を借りてきて、その形を示し間接的にその言葉を表現するという、屈折した方法をとります。しかしこの方法を用いることによって、象形文字の段階で全ての言葉を表現することが理論的には可能になります。つまり、書記システムとしての文字体系の土台がこれで出来たことになるのです。こうした借字という方法によって言葉を表記する文字は、他に東西南北の方位を示す文字、否定の「弗」「勿」、王の自称である「余」などがあります。いずれも象形では直接表わしようのない言葉たちです。

 文字体系というのものは、表音機能をもってはじめて出来上がるというのが世界の文字体系の共通事項ですが、こうしてみますと、甲骨文には表音文字がありますので、文字体系の必要条件をすでに満たしていることになります。世界の文字と同じように「言語を記録する記号」である点でなんら特別なものではないと言うことができると思います。ただ一点異なるのは、象形文字のレベルで文字体系を整えてしまったという点です。これは語尾が変化しない中国語という言語形態がそうさせるわけです。この点も具体的にお話ししたいところですが、時間が限られていますので省略させて頂きます。今申し上げたように、甲骨文は見かけが象形文字ですから、これは表音文字だと言われてもなかなかそういう認識を持ちにくいという面がありますが、その後の漢字の歴史を見てみましても、アルファベットのような表音専用の文字を生み出していません。この点で古代メソポタミアの文字などとは根本的に異なります。それは甲骨文の段階でいきなり文字体系の土台ができてしまったからです。後は、文字を合成して文字を増やしながら表現力をつけていく歴史になっていくわけです。


    祭祀言語の記録 甲骨文

 さきほど、甲骨文は神との通交の記録であると申しました。そして占卜という儀礼の中で用いる特殊な言語を記したものだということを申しました。儀礼のことをまた祭祀とも言うことがあります。祭祀の方がいくぶん広い意味に使うようですので、ここからは祭祀という語も使うことにします。そして祭祀儀礼の時に用いる特殊な言語を祭祀言語と呼ぶことにします。これは日常的な話し言葉と区別するための言葉です。このような考え方は私の創案になるものではありません。以前から民族学言語学者にはよく知られていたものです。彼らはこれを「雅語」と呼んだりします。そして日常的な話し言葉を「俗語」と呼んで区別するわけです。「文語」「口語」という区別の仕方をする場合もありますが、若干紛らわしい要素もありますので、どちらかと言えば「雅語」「俗語」という言い方の方がいいのではないかと思います。しかし私自身は甲骨文が儀礼としての占卜行為の記録であるということを念頭において、あえて祭祀言語という言い方をとることにしています。祭祀言語として想定するものには、こうした祭祀儀礼の場に用いるものだけでなく、『詩経』に収録された古代歌謡をも含んできます。これも広い意味での祭祀の場で歌われたものだからです。


   白川文字学の「」(サイ)を捉え直す──祭祀言語を記録した冊書を入れる器

 ようやく白川文字学を継承する立場からの話しに入ってきました。白川文字学の中で最も有名な「」について述べていきたいと思います。この「」字形は「祝辞を入れる器」であるというのが白川説です。「祝辞」という言葉はあまり馴染みがないのでこれをいつ頃からか「祝詞(のりと)」と書かれるようになりました。神に申し上げる言葉を記したものを器に入れた形だという捉え方です。「■(史)」* や「(告)」の字形の中に出てきます。この説は甲骨文の用例に基づく周到な論証を経て到達した結論ですが、神に申し上げる時だけに用いられたのではないことも用例によって分かっています。つまり、王朝から外部の部族に使いが発せられる時にも用いられたことが分かっています。この場合には字形も少し違っていて「(使)」でもって表わします。しかもいずれの場合も時期がほぼ限定されていて、武丁という王の時だけに用いられていたことも分かっています。こうしたことをひっくるめて考えますと、「祝詞を入れる器」という言い方だけでは片手落ちになってしまうのです。神さまに申し上げる時にも、外部の部族に発する時にもこれが出て来る。この両方を説明できるものでなければならないわけです。そこで私が修正案として提出している考え方は、「祭祀言語を記録した冊書を入れる器」というものです。ここでいう祭祀言語とはさきほど申し上げた特殊な言語です。口頭言語の一種ではありますが、日常生活とは異なる特別な場において用いられる言語です。雅語という言い方をしてもいいかと思います。この雅語を記した文書を入れる器が武丁の時にだけ用いられた。それはなぜかということを考えなければならないわけです。これは甲骨文が誕生した背景を考える時の重要な鍵を握っている問題ですが、今日は時間の関係で詳しくお話しする余裕がありません。『甲骨文の誕生 原論』に具体的に論証しておきましたので、刊行できた時にお読みいただければ幸いです。
       *■(史)が表示できないので、これらの文字を画像ファイルにして掲げておく。


 甲骨文は無文字社会に生まれ、儀礼の際に口頭で発した祭祀言語を記録したものである、というのが私の基本的な考え方です。その象形文字が冊書にも記された。そしてそれを入れた器が「」字形だという解釈です。残ったのは甲骨に記されたものだけです。だから甲骨文と呼んでいるのですが、冊書に書かれた方は残らなかった。なぜ残らなかったのか? それは、残す理由がなかったからです。甲骨の方は廃棄しても残ります。しかし冊書の方は残すための処理をしていないと残りません。私の考えでは、冊書は一時的に用いるだけなので、再利用されたりして廃棄されたのではないかと考えています。特にこの殷代から春秋時代の初め頃までは口頭言語だけで物事を済ませていた時代です。口頭言語の時代というのは口頭で発する言葉が重要であり、新しく登場した文字をさほど重んじなかった時代です。時の経過とともに少しずつ変化していきますが、甲骨文が生まれた時代というのは逆説的な言い方になりますが無文字社会です。このことをよく念頭に置いておいて考える必要があるわけです。このことを考える際に参考になるのは、古代ギリシアにおける口頭言語の世界の研究です。古代ギリシアにおいても、アルファベータ文字が発明された後も口頭言語の時代が長く続いたという現象がありました。私のこの方面の知識は川島重成さんたちの研究から得たものですが、ハヴロックの『プラトン序説』やオングの『声の文化と文字の文化』にもこれと同じことが書かれています。
ところで白川文字学の中で「文字の呪能」という考え方がよく知られています。文字に霊力があるという考えです。私も時々質問を受けるのですが、「文字の呪能」というのは、文字そのものに霊力があるというよりも、言葉に霊力つまり言霊を感じていた時代のことですから、言葉を記録した文字にも霊力が宿ると考えられたのだと思います。結果的に「文字の呪能」を感じていたのには違いないとは思いますが、文字の普及とともに言霊そのものが薄れていったのではないか、という気がしています。
 以上お話ししたことは、私の恩師白川静の立てた「」字形の解釈「祝詞を容れる器」という説を、口頭言語の世界を導入することによって捉え直したものです。このように捉えることによって、後に文書が冊書に書かれるようになる経緯が説明できます。「」には冊書の原初形態になるものが入っているという考え方です。この考え方は、次の西周時代の金文になりますともっと具体的になってきます。


   西周時代中期に周文化へ転換

 このテーマに関連して見ていきますのは西周時代中期の金文資料です。金文というのは青銅器に刻られた文字のことですが、甲骨文と比べますと文章の長いものが多いです。金文は甲骨文を使っていた人たちが西周王朝に移ってきたことによって継承されたものですので、ほぼ同じ字形になっています。さてここで見て頂くのはやはり先ほどの「」字形関係の例に絞らせていただきます。

 西周時代中期から官職任命式の次第を記した銘文が出てきます。一般にこれを「冊命(令)形式金文」と呼んでいます。この時期のものは大半がこれです。西周王朝の支配形態というのは、王朝の官職に諸氏族を任命することによって王朝の中に組み入れ、一種の官僚制を構築します。それによって王朝を制度的に支えるという方式です。日本の古代律令王朝の初期に似ています。この官職任命式に「」が出て来るのです。官職に任命することを示す言葉は「冊令()」と「命(命)」という言葉です。「命(命)」は「令()」に「」字形を加えた字形です。また「冊令」とは、冊書を伴って発令するという意味をもっています。「命」も同じ意味です。この二つの語は一字と二字との違いはあっても同義語です。そのことから考えますと、「」字形には冊書が入っていると考えるほかはありません。また「冊書」そのものを意味する言葉と思われる「令書」や「令冊」も冊命形式金文の中に出てきます。「令書」や「令冊」を受け取りそれを持って帰るという言い方をしています。ここに冊書が用いられていることは間違いないと考えていいと思われます。この場合の「」は王の命令を記した冊書ということになります。またこの冊書の授受だけで終るのではなく、そこに書かれたことが声に出して読み上げられます。ということは「」字形は直接には「祭祀言語を記録した冊書を入れる器」であると同時に、これが読み上げられる。つまり発声という行為を伴うわけです。後に「口」の意味をも含むようになるのは、「」字形にもともと発声という行為が伴っていたからです。こうして「」字形のカテゴリーが拡張されていくわけです。こうした考え方ができるのは、文字がいきなり文字言語として誕生すると考えるのではなく、口頭言語の社会、無文字社会に文字が生まれると考えることによってはじめて説明ができることだと思います。



                 2011.11.20同志社大学明徳館1番教室