高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

「史」の本義

 この度の拙論(※)で「史」概念の問題にやっと決定的な結論を提示することができました。「史」は、これまで恩師白川静による甲骨文の用例の緻密な分析によって、殷王朝の祭祀の一種として措定され、暫定的に「史祭」とも呼ばれていましたが、具体的にはどのような祭祀なのか、その実態を解明するにはいたりませんでした。「史祭」の実態そのものが不詳のまま宙吊り状態になっていたものです。

 今回の論考では、白川説を踏まえながらも、西周時代の金文の用例を再度整理することによって、「史」が、祭祀儀礼の場において王の言葉をその代理の者が肉声で発することを意味する語であると捉え直すことができました。
 関連語の「使」の概念も、王の言葉をもった代理のもの(使者)が、その出向先の他部族に対して王の言葉を(王の代理として)伝える(発する)ということですから、一貫した捉え方ができたことになります。史と使の概念の関係を整理すると下記のようになります。

  史(内史)=王朝内で王の代理の者が王言を発すること。
  使(外史)=使者が他部族に出向いて王の代理で王言を伝える(発する)こと。

 こうして得た「史」の概念を、『甲骨文の誕生 原論』(人文書院)で展開した文字誕生論と照らし合わせてみますと、ぴったり一致する結果になります。「王の代理の者が王言を発する」という史概念と、もの言わぬ王であった武丁の時に文字が誕生したという文字誕生の歴史的背景とが合致するという形で、懸案だった二つの大きな問題が同時に結着したことになります。
 私が『原論』で提示した文字観は「特別な場において用いられる文語的な口頭言語(雅語)」を記録したものが甲骨文や金文であるというものですが、このような文字観に立たないと文字誕生の問題を考えることはできなかった。考えるすべさえなかったということは、『原論』の中で言及した言語学者の意見を勘案しても明らかです。その後も西周金文を対象とした論考を「殷周革命論ノート」と総題して研究所の「紀要」に連載してきましたが、今まで謎であった問題が、上記の文字観に基づいて甲骨文や金文を捉え直すことによってはじめて解明できるようになったものが続いています。このことによっても、私の提示した文字観が当を得たものであったことが明らかになったのではないかと思います。

 拙著『甲骨文の誕生 原論』は、今回「史」概念を明らかにできたという内容を盛り込むために、最終章の一部を書き換える必要が出てきましたが、改訂版をいつ出せるか分りませんので、今しばらくは、下記(※)の拙論をお読み頂くしかありません。出土資料を対象にした研究をするのであれば、最も重要なのがこの文字観であることを忘れてはいけないと思います。


1、「冊令(命)形式金文の歴史的意味」

   (『白川静記念東洋文字文化研究所紀要」第11号掲載)

   http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/sio/file/kiyou11/no11_01.pdf
2、『甲骨文の誕生 原論』(人文書院 2015年)