高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

文字とは何か?──最古の文字とは?【甲骨文の誕生002】

    文字とは何か?──最古の文字とは?(2)

     新石器時代の符号は文字なのか?

 新石器時代の土器などに刻られている符号が文字であるかどうかについて考えてみることにします。中国の考古学は近年めざましい進歩を遂げてきましたので、どんどん新しい資料が出てきます。文字であるかどうかを考える際には、そのような資料がたくさんあるために選択に迷うほどですが、ここでは文字学者が文字の誕生について考える時に用いる、代表的な資料を用いることにします。

 図1 半坡遺跡出土の記号の例
 図1を見て下さい。これらは中国の新石器時代・仰韶文化時代に当たる半坡遺跡(陝西省西安市内)から出土した陶器に刻られていた符号です。一望できるようにずらっと並べていますが、一つ一つが単独で刻られていました。甲骨文にも似た形のものがありますから、文字のようにも見えます。では何を意味しているのでしょう? Iの形は1の意味でしょうか? その次の字形は2の意味でしょうか? そうかも知れませんが、そうでないかも知れませんね。なぜそうでないかも知れないなどと言うのでしょう? 3番目のXはどうでしょう? 10でしょうか? ではその次の+は? 漢字の十に似ているのでやはり10でしょうか? もしそうなら十は二種類あるのでしょうか? どうしてそんなことが分かるのでしょう? 今仮に書いてみたのは多くの人が想像しそうなことを私なりに書いてみたのです。甲骨文ではIと書く場合は1ではなく10の意味に用います。またIIは20の意味です。(後に廿のような形も出てきますが) ローマ数字では前者は1の意味だし、後者は2の意味です。符号が示す意味はその社会や共同体の中で決めている約束事によるものです。ではXはどうでしょう? ローマ数字では10を意味する符号として使っていますが、甲骨文では5を意味する符号として使っています。社会によって違うのです。では+はどうでしょう? 甲骨文では7の意味に使います。意外でしょう? しかし漢数字の七はこの+の形から始まっているわけです。そして後世はこの+を10と間違うようになってしまう。間違っても無理はないという気がしますね。
 さて、Iが甲骨文では10の意味に使うのであれば、1の意味はどのようにしているのでしょう? それは一です。そして2は二です。ただし線は同じ長さにしています。3は三です。これも二の場合と同じです。ここまではよく分かります。では4はどうでしょう? これは「四」ではありません。4は三にもう一本線を加えて四本並べる形です。この文字は後に使わなくなりますが、甲骨金文の時代にはこの形で4を意味していました。こんな調子で数字でさえもその意味するところが社会によって異なるわけですから、他の符号が何を意味するのかは分からないというのが普通の判断です。結局様々な推測をして結論が出せないので、何らかのメッセージを伝えようとしたらしいとは思えても、それが何であるかは分からない、ということになります。つまりは意味不明の符号ということになります。何を表現しようとしたのか分からないのは、それを生み出した社会と直接の繋がりがないから、仮に何らかの約束事があったとしてもそれが伝承されていないからです。

図2 姜寨遺跡出土の記号の例

 図2も図1と同じ仰韶文化時代の姜寨遺跡(陝西省)から出土した陶器に刻られたものです。半坡遺跡の符号の形とはずいぶん違っています。何を意味しているのだろうと、想像はしてみますが、手がかりがありません。甲骨文の中にこういう形のものはありませんから、甲骨文とは異なる系統のものと判断せざるをえません。半坡遺跡と比べて姜寨遺跡は、少し安陽(殷墟)寄りの位置にあるものの、符号の形からすると無関係のものと思われます。何を意味するのか判断しかねるという点では図1と同じです。それらの約束事を知っている人が現存していないので教えてくれる人が誰もいないからです。その意味するところを教えてもらわないと分からない符号は、その社会や共同体の中でしか通用しないものです。


図3 大汶口遺跡出土の陶尊記号

 図3に進みましょう。これは山東省の大汶口遺跡から出土した尊という器種の陶器に刻られたもので、龍山文化時代に当たります。図1・2と違って符号というよりも絵といった方がいい趣のものです。このうち3や4は鉈や斧の形に見えます。また1や2は太陽が描かれているように見えます。太陽かどうか判断する根拠はありませんが、何となくそんな風に見えます。2の下は甲骨文で用いる山の形に似ています。それで山の上に太陽が描かれている、という風に捉える人が多いようです。しかし何を意味しているのでしょう? 何かを象徴的に示しているように見えます。色々想像したくなってきます。しかし残念ながら全て想像や空想の域を出るものではありません。中国ではこのように仰韶文化時代から龍山文化時代へと進むに従って、符号ふうなものから絵文字ふうのものへと進んできたのでしょうか? これも実際には明らかではありません。符号から絵文字へという過程があるかのように思われやすいだけのことです。

 次に図4〜9までを見てみましょう。

図4 フーリエ美術館蔵の玉璧と記号


図5 馬橋良渚文化陶杯記号






図6 呉県澄湖良渚文化陶罐記号


図7 サックラー博物館蔵良渚文化陶壷記号

図8 杭県良渚文化陶盤記号
 これらは浙江省あたりの良渚文化遺跡から出土したものです。良渚文化は江南地方の文化ですが、ここに見える符号は黄河流域周辺の遺跡から出てきたものとは著しく形が異なっています。社会が違うとこんなにも違うものかと思います。このことは、これらの社会の間で互いに往来することがなかったことを意味しているのかも知れませんが、よく分かりません。言えることがあるとすれば、符号のようなものを考える場合に、異なる文化には異なる符号が考えられるということくらいでしょう。しかし今私が述べようとしていることは、そういう問題ではなく、良渚文化の図6〜9の符号は、図1〜3で見たような単独で別々に描かれたものではない点に注目したいということです。これらの符号がずらっと並べて描かれていたという現象についてです。単独で描かれていた時は単なる符号ということになりましたが、このように並べて描かれていますと、何かある程度まとまったメッセージを持っていたのではないかと思われてきます。それが文の形に復元できるような気がしてきます。しかし何を意味しているのかは全く分かりません。甲骨文とは全く異なる形象だからです。文の形に復元できるような気がしても、手がかりがない以上は復元することは不可能です。おそらく北方の文化と南方の文化とはこの時期にはまだ交流がなかったのではないかと思わざるをえません。そして興味深いことは、漢字を用いるのが若干後になった南方文化に、北方文化のそれよりも文字に近いと思わせるものが発見されたということです。因みに付け加えておきますと、このような文字を思わせる符号を残している良渚文化は洪水によって滅んでしまったようです。それは、これらの文物の出土した地層が洪水による厚い地層に覆われていることによって分かります。こうして文字らしきものも洪水とともに滅んでしまったことになります。はかないものです。しかしもしもこれが文字であるなら、洪水を免れた一部の人たちによって継承されそうなものですが、そうはならなかった。

図9 余杭良渚文化陶罐記号

さて最後に図10の山東省鄒平丁公村出土の資料を見てみましょう。
図10 鄒平丁公龍山文化陶片上の刻画記号

 これは陶器にこのような形で刻られた符号群です。形がいかにも象形ですからむしろ文字群と呼びたいところです。この資料が出土した時はずいぶん大騒ぎをしたものです。中国人日本人を問わず専門家も含めて大騒ぎになりました。象形文字を思わせますから、甲骨文の知識で解読可能ということになったのです。誰がそう言ったか分かりませんが、誰ということもなく言い出されたものです。私自身は多少甲骨文の知識がありましたから、解読には懐疑的でした。甲骨文に似た雰囲気のものはあっても、殷墟から出土した字形に結びつくものはなかったからです。解読できると言っていた人たちも、時の経つにつれて解読が不可能だということが分かってきました。そして甲骨文と直接の繋がりがない文字資料という結論になったわけです。それでも何らかのメッセージを含む文字列であろうということになり、古代の彝族の文字であるというような説が出てきて、解読を試みる人も出てきました。しかし、現代の彝族は中国の西南地方である雲南省四川省に住んでいますが、これとは別の文字を使っています。ですから仮に彝族だったとしても、図10の符号を刻った民族とは直接の繋がりはなく、文字の継承関係はないようです。

 甲骨文は殷代後期の殷墟時代に生まれましたが、新石器時代は以上に見てきたようにまだ符号のようなものしか見つかりません。符号が何らかの形で徐々に象形文字へと移行していったと考えるなら、殷墟時代の直前期にそうしたものが見つからないものか、と考える人もいるでしょう。これも一通りたどってみることにしましょう。最近の中国では、殷王朝の前に夏王朝があったと想定されていて、その宮殿が河南省偃師二里頭であろうということになっています。日本の学者では夏王朝を想定することに消極的な人が多いようです。私自身も夏王朝の宮殿と見なすことには積極的ではありません。しかしそれは横へ置いておいて、この宮殿から文字資料が出てきたかというと、出土はしていないのです。出土しそうなめぼしい所は発掘したはずですが、出てこなかったのです。
 ではその後の時期はどうでしょう? その後の時期としては鄭州時代がありますが、出てきていません。甲骨文の刻られた骨が一片だけ出ていますが、地層が明らかではなく、また甲骨文の第一期の文字とよく似ていることからすると、殷墟時代のものと思われます。
 次いで、都が鄭州から殷墟に移る前の遺跡として小双橋遺跡があります。場所は鄭州からさらに北に行った黄河の手前になります。ここからは大量の牛の骨が出てきたので、文化的に殷墟文化につながるということで話題になりましたが、文字は出てきませんでした。ただ新石器時代の符号のようなものが一つ出土したので、一時的に話題になっただけです。
 ここまで来ると殷墟時代は直ぐ目の前です。そして殷墟時代直近の遺跡が、殷墟と呼ばれてきた地域の北側から姿を現わしました。殷墟を東西に横切る洹河の北側にあることから洹北商城と呼ばれる城壁で囲まれた遺跡です。この城壁の中に宮殿が見つかりました。発掘報告があったのは宮殿遺址1号です。興味深いことにこの宮殿周辺のあちこちで占卜した後の骨が見つかっています。しかし卜骨には文字が見えません。殷墟時代なら当然刻られているはずの占卜に文字が見えないのです。こうなってきますと、殷墟直前期でさえ文字が使われていなかったと見なさざるをえません。そうすると、甲骨文は殷墟時代すなわち殷代後期の武丁という王の時に突然姿を現わしたことになります。そんな馬鹿なと思う人もあるかと思いますが、これが現実です。そもそも符号のようなものから徐々に象形文字へと移行したという「常識」に裏付けがあるかどうかです。符号のようなものから象形文字へと移行する過程を具体的に描くことができるでしょうか? 私自身もそのような常識から出発した一人ですし、白川静も以前はそのように考えていましたが、この考えは現実的ではないと考えるにいたったのです。私と同じように甲骨文は一挙に体系を具えて出現したと考えるほかはありません。この講義はこのことを様々な角度から検討する試みです。
 それではここで考えるべきことは何でしょう? 我々が漠然と考えている文字とは一体何なのか? という根本問題を考えることです。これが意外にあいまいにされたまま、最古の文字を追求してきたように思われます。最古の文字を追求するのに、文字とは何かということを曖昧にしたままで、果たして最古の文字が見つかるでしょうか? それは論理的に無理でしょう。では何を基準に文字と判断できるのでしょう? この問題が肝心要の問題であることがお分かりいただけると思います。次回は「文字とは何か?」という問題に進みます。

 (訂正について)一部誤入力を訂正しました。またアルファベットの半角文字を全角に数カ所直しました。2011.5.8

    → 003文字という概念【甲骨文の誕生003】
       http://mojidouji.hatenablog.com/entry/20111216/1324036369