高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

005日本語の文字体系──借字と漢字仮名交じり文【甲骨文の誕生005】

    文字とは何か?──最古の文字とは?(5)

     日本語の文字体系──借字と漢字仮名交じり文

 我々日本人が今普通に使っている「漢字仮名交じり文」という書記システムは一朝一夕にできたものでないことは誰もが知っています。また、日本人がはじめて文字を使って文を書いた時、漢字ばかりで書いたということも知らない人はいないと思います。しかしどのような経路をたどって漢字だけの表記から「漢字仮名交じり文」の書記システムにいたったかということは、あまりきっちりとは知られていないのではないかという気がします。また、世代によってもこのへんの理解がまちまちであるような気がします。こうした世代間の認識の差はどこから来るのでしょう? それは律令時代の木簡が大量に出てきた時を境に、表記の歴史に対する理解が厳密になったことによります。また近年「歌木簡」と呼ばれる音仮名つまり万葉仮名の出土もあって、仮名の生まれる道筋がはっきりしてきました。今回は日本語の表記の歴史を、主に表音機能をどのようにして実現していったか、その工夫の跡をたどってみようと思います。このことによって、文字体系あるいは書記システムが最も必要なものが表音機能の実現、特にその言語にもっともマッチした表音機能をいかに実現したのか、という認識を明確なものにしたいと思います。
  日本で文字を使いはじめた時から順を追って進めていきますが、いくつかの節目がありますので、まず時期区分をしておきます。ただ近年の研究では韓国の古代木簡が大量に発見されたこともあって、日本語表記の歴史そのものが大きく書き換えられる可能性があるようです。詳細は今後の研究の進展を待つしかありませんが、日本語表記の歴史を厳密に追究するという問題意識ではなく、平仮名や片仮名が生まれる必然性を俯瞰するという問題意識からお話していますので、これらの時期区分はあくまで目安で、例としてとりあげた文書の時期だと思っていただければいいと思います。


  1、漢文で書いた。(西暦5世紀頃から6世紀初頭まで)
  2、漢字を用いた和文的な表記。(7世紀前半頃)
  3、音仮名(漢字)・訓仮名(漢字)とその混用。(7世紀中葉以降)
  4、漢字ばかりで送り仮名も記した宣命小書体(8世紀前半)
  5、音仮名(漢字)のみを用いた歌木簡。(8世紀中葉)
  6、ほとんど平仮名ばかりで書いた「古今和歌集」序(913年頃成立)

 文字表記の仕方を実際に見てみることにしましょう。


       稲荷山古墳出土「獲加多支鹵大王の鉄剣」

 1の漢文。稲荷山古墳から出土した鉄剣に金の象嵌によって文字が刻られたものです。雄略の鉄剣としてとても話題になったものです。冒頭の「辛亥年」は西暦471年に当たります。

  

亥年七月中記、乎獲居臣上祖名意富比垝、其児名多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比、其児名加差波余、其児名乎獲居臣、世々爲杖刀人首、奉事來至今、獲加多支鹵大王寺、在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也
 (辛亥年七月中記す。乎獲居[おわけ]臣、上祖の名は意富比垝[おほひこ]、其の児の名は多加利[たかり]足尼[すくね]、其の児の名は弖已加利[てよかり]獲居[わけ]、其の児の名は多加披次[たかはし]獲居[わけ]、其の児の名は多沙鬼[たさき]獲居[わけ]、其の児の名は半弖比[はてひ]、其の児の名は加差披余[かさはや]、其の児の名は乎獲居[おわけ]。臣、世々杖刀人の首と爲て、事へ奉り来りて今に至る。獲加[わか]多支鹵[たける]大王の寺、斯鬼[しき]宮に在りし時、吾、天下を左治す。この百練利刀を作らしめ、吾が事へ奉れる根原を記すなり。
          (稲荷山古墳出土「獲加多支鹵大王の鉄剣」)


 漢文で書かれているのですが、中国語にはない固有名詞は音訳しています。「乎獲居[おわけ]」、「意富比垝[おほひこ]」、「多加利[たかり]」「足尼[すくね]」、「弖已加利獲居[てよかりわけ]」、「多加披次獲居[たかはしわけ]」、「多沙鬼獲居[たさきわけ]」、「半弖比[はてひ]」、「加差披余[かさはや]」、「獲加多支鹵[わかたける]」「斯鬼[しき]」がそれです。このうち「多加披次」は今なら「高橋」や「高梁」と書くところでしょう。意味を示すための表記です。これを訓読みといいます。「多加披次」の方は音訳です。この時期は固有名詞を示すのに訓読みをすることはなく、もっぱら音訳していたのは、文章を書いたのが渡来人だったからだと思われます。もともと列島に住んでいた人たちが漢字を使って文章を書くことは、まだ出来なかったと考えてよいと思われます。


       漢字を用いた和文的な表記

 大化の改新頃から文字表記の語順が日本語のままの和文表記になってくるのですが、そのやや前の段階の「菩薩半跏像銘」を見ておきます。推古朝頃のものです。

  歳次丙寅年正月生十八日記高屋大夫為分韓婦夫人名阿麻古願南无頂礼作奏也。
                           (「菩薩半跏像銘」)
  (歳、丙寅に次る年の正月生十八日に記す。高屋大夫、分れにし韓婦夫人、名をば阿麻古とまうすが為に、願ひなむ南无頂礼[なむちやうらい]して作り奏すなり。)

 先ほど見た稲荷山古墳出土「獲加多支鹵大王の鉄剣」と比べますと、文書作成にたずさわっていた渡来系の人々が、次第に日本語になじんできて、和人化してきたことを物語っていると見ることができます。そして、大化の改新を経て律令王朝が成立する七世紀後半になりますと、今度は漢文の読み下しが行なわれるようになります。がしかし、漢文の読み下し文と言いましても、まだ平仮名も片仮名も生まれていない時期ですから、全て漢字で書かれた変な読み下し文です。


       漢字を借りて日本語を表記した「音仮名」「訓仮名」

 ここで「仮名」という言葉の示す意味についてお断りしておきます。現在我々が普通に呼ぶところの「仮名」という言葉は「平仮名」ないし「片仮名」を意味しています。前者が「あいうえお」系の漢字の草書体を極端に略体化した字体、後者が「イロハニホ」系の漢字の一部分を借用した字体です。このような形に定着するまでにはまだ二百年ほどを要しますが、それまでの間はまだすべて漢字を用いて「仮名」としていたのです。そもそも「仮名」という言葉の意味は、文字つまり漢字を借りた文字という意味なのです。「名」は名前という意味に用いることが多いのですが、「文字」という意味もあって、この場合はその「文字」という意味に用いられているのです。したがって「仮名」という語はこの場合「借字」という意味で用いられているのです。中国の六書の範疇でいうところの「仮借」も「借字」という意味なのですが、同じ言葉を使うと混乱しますので、ここでは「借字」という言い方を採ることにします。「仮名」とはもともと日本に渡ってきた漢字を借りた文字であったと理解して下さい。最初の「仮名」は漢字を使って日本語の音を表すために用いられた漢字の借字という意味だったのです。漢字ばかりですから見た目もややこしいのですが、いわゆる「平仮名」や「片仮名」を創出するまでの試行錯誤の過程として、そのようなことを暫定的にやっていたわけです。

 次にお話ししておかなければならないことは、今申しました「仮名」にも「音仮名」と「訓仮名」との二種類があったことについてです。またまたややこしいことになりますが、ここでもいったん「平仮名」「片仮名」の存在を忘れて下さい。「仮名」とは、もともと日本語を表記するために漢字を借りた文字ですから、最初は様々な試みをやっていたのです。「音仮名」とは漢字の音を借りて表音文字として使ったもの。「訓仮名」とは漢字の示す意味つまり訓を表音文字として用いる借字です。漢字の示す意味に相当する日本語を使って、それを表音のために用いたのです。例を挙げましょう。例えば「矢田部」と書いて「ヤタベ」と読ませるような使い方をいいます。「矢田部」は今も地名や人名に用いられて馴染んでいますので、ほとんどの人が間違わずに「ヤタベ」と読めると思います。しかし「矢」という文字の漢字音は実は「シ」です。この「矢」という文字で示される物に相当する言葉を日本語では「や」と発音しているのです。我々はこれを漢字の意味として理解していますが、これをまた「訓」と呼んでいるのです。それでこのような表音の用字法を「訓仮名」と呼ぶのです。「田」の場合も同じです。「田」という文字の漢字音は「デン」です。そして訓の方が「た」です。「部」の場合は漢字音が「ブ」で訓が「べ」ということになります。「や」に「矢」を当てているのは日本語の意味を考えますと厳密ではありません。本当は「八田部」の方が正しいということになります。この場合のヤタとは沢山の田の意味ですから、多いという意味の「八」を用いる方が適切なのですが、ここではそこまでこだわらずに、「や」という日本語の音を示せればいいということで「矢」が用いられているということになります。こうした訓仮名の名残りが現代も残っているのを普段あまり意識していませんが、改めて厳密に分析しますと音仮名と訓仮名が混じった形で使っていることに気付きます。このような混用はこの時期に遡るわけです。藤原宮跡から出土した木簡を例にとりましても、「阿田矢[あたや]」「阿津支煮[あづきに]」「者々支[ははき]」などの例があります。どれが音仮名でどれが訓仮名か、分析してみて下さい。


       万葉集』表記に見える略体歌と非略体歌

 八世紀には様々な日本語表記の試みが現われます。その中で『万葉集』の表記が種々様々であることは万葉仮名と呼ばれてよく知られてきました。ここでは略体歌と非略体歌と呼ばれるものをご紹介して、過渡期の様子をもう少しご覧頂くことにします。比較的近年「歌木簡」と呼ばれる音仮名だけで書かれた歌が発見されましたが、それと並行する時期と思われます。どちらも人麻呂歌集の中に見えるものです。。

  

〔略体歌〕春楊葛山発雲立座妹念(11.2453)
     (春楊[はるやなぎ]葛山[かづらきやま]にた発つ雲の立ちても座[い]ても妹[いも]をしぞ念[おも]ふ)
  〔非略体歌〕敷栲之衣手離而玉藻成靡可宿濫和乎待難尓(11.2483)
     (敷栲[しきたへ]の衣手[ころもで]離[か]れて玉藻[たまも]成す靡き可[か]宿[ぬ]濫[らむ]和[わ]乎[を]待ち難[かて]尓[に])

 略体歌は31音をわずか10字で記しています。「春楊」を「はるやなぎ」と読むのは難しくありませんが、次の「葛山」を「かづらきやま」と読むのは地名の予備知識なしには不可能でしょう。しかも「発」を発するの意味での「たつ」と読むという認識が成り立って、「かづらきやまに」というように助詞の「に」を補う必要があることに気付く。ついで「立座」を「たちてもいても」という一種の慣用句と認識することによって、「妹念」に強意のニュアンスが加わるという判断ができ、そこから「いもをしぞおもふ」という読みを導くということになります。これで何とか読めたかなということになります。しかしこのように読めるまでには随分想像や連想を働かせながら回り道をさせられています。現代人の我々からすれば、相当高度な専門的知識を駆使してはじめて原形の再現が可能になるという手間のかかる表記です。ただ当時の人にとってはこれほど苦労しなくても、上の三句が「立ち」という語を引き出す序詞であると直感しさえすれば、あとは容易に読めるものだったかも知れません。
 非略体歌は31音を19字で記しています。この場合は、「之・而・可・乎・尓」が送り仮名の役割を果たしていますので、比較的容易に読むことができます。略体歌と非略体歌とを比べますとどちらが読みやすいかは一目瞭然ですから、表記法としてどちらが生き残っていくかは言うまでもないと思います。またここに見られる「音仮名」「訓仮名」が「平仮名」に統一されて行った時、漢字仮名交じり文という日本語表記に最も適した表記法に向かっていく道筋が見えてきます。


       歌木簡の仮名表記と宣命小書体から古今和歌集
 次に近年出土して一躍注目を浴びた紫香楽宮出土の「歌木簡」がありますが、その後別の所からも同様のものがいくつか発見されています。その中で比較的保存状態の良い藤原京左京七条一坊出土の「歌木簡」をご紹介します。時期は8世紀初頭とされています。(このような用字法そのものは7世紀末頃に始まっていたようです。)

  

・奈尔皮ツ尔 佐久矢己乃皮奈 布由己母利 伊真皮々留マ止 佐久〔以下不明〕
  (なにはつに さくやこのはな ふゆごもり いまははるべと さく[やこのはな])


 音仮名のみを用いた表記法であることは説明するまでもないでしょう。原資料は楷書体で書かれていますが、これを極端に略体化した草書体で書けば、『古今和歌集』に見られるような平仮名主体の表記になります。和歌の表記はこの方向に進んでいったことが分かります。

 平仮名へ進んでいく方向性が見えた8世紀前半頃に、宣命小書体という表記法も出現します。これは正倉院文書の「天平勝宝九歳瑞字宣命」(757年)です。もとは肉声で発せられたものを記録したもののようです。

  

天皇大命良末等大命衆聞食倍止宣此天平勝宝九歳三月二十日天倍留奈留受賜波理親王等王等臣等百官人等天下公民等皆受所賜賞刀夫倍支雖在今間供奉政趣異志麻尔事交倍波供奉政畢加久太尔母宣賜禰波汝等伊布加志美意保々志念奈母所念宣大命諸聞食宣      三月廿五日中務卿宣命
 天皇[すめら]が大命[おほみこと]らまと宣[のりたま]ふ大命を衆[もろもろ]聞き食[たま]へと宣りたまふ。この天平勝宝九歳三月二十日、天[あめ]の賜へる大きなる瑞[しるし]を頂[いただき]に受け賜はり、貴[かしこ]み恐[かしこ]み、親王[みこ]等[たち]・王[おほきみ]等[たち]・臣[おみ]等[たち]・百官人[もものつかさのひと]等[ども]・天下公民[あめのしたのおほみたから]等[ども]、皆に受け賜はり、賞たぶべき物にありと雖[いへど]も、今の間、供[つか]へ奉[まつ]る政[まつりごと]の趣[おもむき]異[こと]しまにあるに、他[あだ]しき事交[まじ]へば恐[かしこ]み、供へ奉る政畢[をは]りて後に趣は宣らむ。かくだにも宣り賜はねば、汝[いまし]等[たち]いふかしみ、おほほしみ念[おも]はむかとなも念ほすと宣りたまふ大命を諸聞き食[たま]へと宣りたまふ。 三月廿五日中務卿、命を宣る)


 今「歌木簡」と「宣命小書体」という二種類の表記法を見ました。これらは「平仮名」も「片仮名」まだ現われない時代の表記法ではありますが、それらの仮名が発明された後の表記の仕方を暗示する、書記システムであることが容易に分かります。表記法は読み手にとって読みやすい方向へと洗練されていくわけですから、「平仮名」の創出はもはや時間の問題であったことが合点できます。延喜5年(905)になって、醍醐天皇の命による勅撰和歌集古今和歌集』が編纂されます。ここでほとんど平仮名だけを用いた和歌和文が記されます。こうして「平仮名」が王朝によって公認されたということを意味します。その序文「仮名序」も次のように大部分が平仮名で記されています。

  

やまとうたは、ひとのこゝろをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける。世中にある人、ことわざしげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。花になくうぐひす、みづにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬ鬼神をも、あはれとおもはせ、おとこ女のなかをもやはらげ、たけきものゝふのこゝろをも、なぐさむるは哥なり。

 以上、7世紀以降の日本語書記の変遷を見てきました。ここで文字の書記システムがどのような過程を経て整っていったか、という問題意識から振り返ってみます。
 中国から文字が入ってきたばかりの頃は、漢字のみで日本語を記す工夫が様々に試みられましたが、表意文字としての漢字だけでは十分な表現能力をもたせることができませんでした。中国語にはない日本語特有の助詞や助動詞、用言の活用語尾といった、語の一部を形成しつつも多様に変化するところの付属的な部分を何とかして表記する必要があったのです。これには何らかの形で音を表わす方法、つまり表音機能を担わせる記号が必要でした。これは日本語と中国語との言語構造の違いからくるものです。そのための様々な試みとして漢字を借用した「音仮名」や「訓仮名」が暫定的なものと案出されました。これは漢字しか知らない日本人としてはやむをえない手段だったわけです。しかしそうした借字による表音をしばらく続けているうちに、それらの漢字を極端に略体化した表音専用の記号を生み出すという大発明をやってのけた。このことによって表意文字としての漢字と、表音文字としての平仮名あるいは片仮名とが明確に区別できるようになったわけです。このような文字の表記システムを漢字仮名交じり文と呼んでいますが、日本語の表記に最も適した方法の基礎がここで整えられたことになります。この表記システムが整う上で最も重要な機能が表音であったことは改めて申すまでもないでしょう。
                         2014年9月2日 一部修正を加えた。

  → 006甲骨文の中の表音文字(借字)【甲骨文の誕生006】
     http://mojidouji.hatenablog.com/entry/20111220/1324380123