高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

速く読むためには深く読む訓練を積んでおく

 小説家の平野啓一郎が『本の読み方  スローリーディングの実践』を出している。京大出身の物書きだと本を要領よく読む方法などという本を出しそうだが、さすがは小説家だ、ゆっくり深く読む方法を書いている。
 私が学生諸君に勧めている方法とは多少違いもあるので、ここからは私の意見を述べていくことにする。
 速く沢山の本を読むというのは必要に迫られてやることだが、それを方法化したのが「速読術」というやつだ。一時流行ったので私も試してみたことがある。それは眼球の動かし方まで練習するような本格的な速読術だった。これも試してみた。筋肉の使い方を練習するわけだからちょっとスポーツ感覚になっている。こういうものは好きな方なので暫くやってみた。通勤電車の中でできるだけ本をたくさん読もうと思ったからである。確かに速く読み進むことができる。なかなか読み進まなかった本も20分ほどで読んでしまったものもある。してやったり、という感じだったのだが、必要があってその本のことを思い出そうとしたが、結局何も残っていなかったので、もう一度ゆっくり読むことになった。そもそもその本は速く読むような書物ではなかった。そこからたくさんのことを読み取るような種類の著作であって、つまり深く読まなければならない本だったのだ。だから時間がかかったのである。それをともかく大意だけを摑むために読み進む、というやり方をしていたわけである。全くナンセンスな読書法であった。

 その時に考えたことは、速読というのは、ビジネスマンが仕事の必要上できるだけ大量の文書に目を通すための方法であるということ、学問に活かすための重要なことが細部に亘るまでたくさん書いてあるような本を読む方法ではない、ということであった。言い換えれば、細部の含みまで深く考えながら読まなければならない文章の場合は、速読ではたくさんのことを読み落とすということである。文章が長い割には情報が少ない文章を読むにはいいのだろう。しかし凝縮された表現の文章をじっくり読まなければならない場合、上滑りするということである。
 さて私たちというか、私のように文学や古典研究をやるものは、対象とする文章からたくさんの情報あるいは信号をキャッチしなければ、質の高い仕事はできないのである。一言でいえば深く読むことが求められる仕事である。たとえば詩を読む場合に小説のストーリーを追うような軽快なスピードで読むことはできないだろう。そんなことをしても読む意味がない。非常に凝縮された表現を、できるだけ作者の意図するところを摑もうとして読む読み方が求められる。そこに速読はありえないのだ。もしもそういうことをやっている人があれば、ずいぶん荒っぽい読み方をしているに違いない。

 このようなやり方をしていると、いつまで経っても本を速く読めないと思う人が多いかも知れないが、実はそうではない。速く読めるようになるには、深く読む訓練をしなければならないのだ。いつも浅く読んでいるといつまで経っても浅い読み方しかできない。そしてちょっと難解な文章にでくわすと挫折してしまうのだ。もうそれは速い遅いもない。挫折してしまうのだ。逆に、深く読むことが習慣化してくると、読み方が次第に速くなっていくのだ。それは、深く読むのにどれくらい時間がかかるかが自分で分かってくるので、読書の速さを自分で決めることができるからだ。そしてどんな文章にも対応できるようになっていく。そこに文学作品を深く読み分析できるかどうかの岐路がある。
 繰り返していえば、速く読むためには深く読むことを習慣化してしまうのだ。ろくに読解力もないうちから速読をやる習慣がついてしまうと、読書に限らず何事も浅い思慮しかできない人間になる。