高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

思い出すことなど

 拙著をめぐって書いた文章を久しぶりに読み返していて、学生時代のことをあれこれと思い出した。大変な時代だったが、二人の先学の言葉に従ってこんなことをやっていたのである。冒頭は拙著『西周王朝論《話体版》』についてのコメントとして書いた文章なのでそのまま残しておく。

 二年前に書いたこの文章を読み返していてふと気付いたのは、全体を見る視点(巨視的な視点)と部分を見る視点(微視的な視点)とを頻繁に往復するような思考法は、ひょっとしたら、学生時代にマルクスの『資本論』を読んだことによって習得したものではないかという気がしてきた。『資本論』を読んだきっかけは、『日本語はどういう言語か』や『弁証法はどういう科学か』の三浦つとむの言葉である。言語の構造と資本制社会の構造とが似ていること。そして唯物弁証法的な思考法を身に着けるためにはマルクスの『資本論』を読むのが良いとされていたからである。素直な人間なのでそれを実行したまでである。読み通すのは困難を極めたが、何とか読み終えた時、頭の構造が変わったという明確な意識を持った。それを読んでいた時、三浦が書いていたように、唯物弁証法的な思考法を何とか身に着けようと意識しながら読んでいた。随分昔のことだからすっかり忘れていたのだが、ふとそのことを思い出したのである。
 冒頭の価値論が難しいので躓きやすいのだが、難しい所はノートに書きながら読むという方法で難所を突破したのである。この読書法は恩師白川静が実践していた読書法である。写しながら読むのだから普段のようなスピードでは進まない。写しながら、つまりじっくり考えながら読むということである。やってみれば分かることだが、普段いかにせかせかと読んでいるかということを痛感させられる。いわゆる「速読」とは対極にある読書法である。学生のうちから「速読」などを実践してしまうと、じっくり読む習慣がつかない。つまり、どんな文章でも速く読んでしまうので、重要な事柄を読み落としがちになるのである。速読の件では、自分の経験を踏まえて以前に書いたことがあるので、ここでは繰り返さない。実は、冒頭の難解な部分は合計7回書き写してやっと理解できたという経験は今も忘れずにいる。

 当時私が読んでいたのは長谷部文雄の訳(角川文庫)だった。信頼していた筋から良い訳だということを聞いていたのでそうしたのだが、 随分後になってから岩波文庫向坂逸郎訳を試しに読んでみたことがあって、向坂訳の方が分かりやすい訳だということが分かった。最初から向坂訳を選んでいればあんなに苦労しなかったかも知れない。だが当時、訳文の分かりにくいところを何とか理解しようとして、丸善で買ってきた英訳の資本論で当該箇所を読んでみると直ぐに分かる場合があった。今なら『資本論』の分かりやすい訳がいくつか出ているので良い環境にあるのではないか。ヘーゲルやカントの訳も随分分かりやすくなっている。それは、欧米語と日本語との関係が語彙レベルでイコールの関係にあるわけではないことに、気づいたことによると思うが、この件は、また別の機会に。
 だが、あのように苦労して読んだことは必ずしもマイナスとは思わない。分かりにくい原因が分かったり、少々難しいものでも様々な手段を用いて理解することによって、それまで自分がもっていなかった能力を育てることができるからである。これを私は余得と呼んでいる。分からなかった文章が理解できてみると、ここの訳はこう書いてくれていれば分かったのに、というように訳文を自分なりに手直ししたりすることによって、思考力や文章力やが付くということがある。繰り返しになるが、難しい文章は書き写しながら読むということは、良い方法だと思う。生まれつき持っている能力など高が知れている。それを「才能」などと呼ぶのでは余りにも世界が貧しいのではあるまいか。

 

  唯物弁証法的な思考法を養う件でもう一つ思い出したことがある。確か大学に入学し暫く経った頃のこと、京都大学に進学した私の親友から聞いた話である。ある国文学の教授から言われたことで、若いうちに「形而上学」をやっておいた方が良い。自分はそれをやらなかったことが祟っているというような趣旨だったようだ。(つまり「形而上学」をやっていたらもっと大きな仕事ができただろうにということだったらしい。)京大の国語国文学科といえば堅実で緻密な論証を重んじる「実証的な学風」として知られるが、見方を変えれば地味な学風である。私は雑誌「国語国文」もずっと購読していたので、用例分析のやり方や論証の仕方はそこから学んだものが大きいと思う。(以前言及した森重敏も京大の国語国文の出身である。また恩師白川静の専門論文にも共通したところがあることは、講演などで時々言及している通りである。)その教授の名は高校時代から知っていたかなり有名な人だったので意外な言葉を聞いたような気がしたが、後進の者に対する非常に誠実なアドバイスだと感じて、その後の私の課題としても考えるようになったのである。
 以来、何らかの形で「形而上学」(つまり哲学であるが)をやっておかねばならないと思い続けていた。『資本論』を読んだのは直接には三浦の言葉に啓発されたことではあるが、この教授の言葉にも強く動かされ、自分自身の必須の課題として心がけるようになった。その頃、色んなものに手を出した。スペインの思想家オルテガニーチェメルロ=ポンティ等々、挙げ出したらきりがない。大学に入学した頃の私は、あまり読解力がなかったと記憶するが、難しい本はノートに写しながら読むという方法で、読む力、考える力を次第につけていったように思う。それと、私は父親に進学を反対されるような貧しい境遇にあったため、本を買う金がなかったということも関係しているのだが。だから高価な書物は友人が読まなくなった本を借りて読んだりした。吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』(上)(下)なども高価でとうてい買うことなどかなわなかったが、友人から借りて、やはり難しいところはノートに写しながら読み進めていったものである。当時の立命館大学は授業料は安かったが、その分貧乏大学で図書館には新刊書が全くなかったのである。

 マルクスエンゲルスの本は文庫本で入手できる範囲で色々読んだ。まるでマルクス主義者のように思われるかも知れないが、マルクスを読んだからといって左翼になるわけではない。もしもそのように考える人があるとすれば、思想と宗教との区別がつかない人であろう。マルクスの「共産党宣言」を読んだだけで共産党に入ったり、共産主義者になったりするものかどうか。学生の左翼運動には違和感を覚えることがしばしばあった。私はむしろ、林健太郎猪木正道などの「保守派」と目される人の方が足が地に着いた感じがして共感を覚えたのである。彼らは保守派とされていて、学生の中には悪くいう人が少なくなかったが、どちらもマルクスをよく読んでいる人たちである。マルクスの『資本論』は政治的立場を超えて評価される普遍性を持っていることは、田辺元が「哲学史上最小限の古典」として11冊を挙げた中に入れていることからも分かるのではないか。参考に挙げてみる。

ギリシアでは
 1 プラトン『国家論』(理想国)
 2 アリストテレス形而上学
中世キリスト教に入って
 3 新約聖書
 4 アウグスティヌス『告白』
 5 エックハルトの説教書
近世
 6 デカルト省察録』
 7 スピノザ『エチカ』
 8 ライプニッツ『単子論[モナドロジイ]』
 9 カント『純粋理性批判
 10 ヘーゲル精神現象学
最後に
 11 マルクス資本論

   (『哲学入門』二 哲学諸部門の相互浸透と哲学史の発展 より)
 

【参考】2011.8.27 早く読むためには深く読む訓練を積んでおく

https://mojidouji.hatenablog.com/entry/20110827/1314422947