高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

《陳風》「墓門」の読解

 昨日の《白川詩経研》は前回に続いて「墓門」を解読する会になりました。今までやってきた研究会の中で最も重要な内容になりました。それは語彙の用例を徹底的に調べてくるだけでなく、それらの用例を読み抜くことによって、解読しきれなかった詩句を理解する突破口になることがある。そういうことを伝えたかったからです。私が学生諸君といっしょに勉強会をやっている目的は、そのような力をつけてもらうつもりでやっているわけであって、単なる用例調べだけの訓練で終わるつもりはありません。前回出席していながら昨日休んだ人はその重要な機会を失ったわけで、大変残念ですがここに再現はできません。以下、解釈の進め方の大凡の道筋を記しておきますが、網羅的ではありません。

 詩篇の形式は前の二句が興的表現であり、対照的な意味を持たせているというよりも、表現を転換しながら同じ趣旨の比喩を繰り返したと見るのが『詩経』の詩の一般的捉え方である。従って、「棘」を悪木、「梅」が良木といった対照的な捉え方は適切でないと思う。これは「棘」をトゲあるいはイバラと捉えたがために悪木と見たことによるもので、「棘」はナツメの一種で、その実は不老長寿・懐妊・回春に効き目のあるものと思われていた。いわば生命力をもった実である。そういう意味では梅と同種のイメージをもたれていたと思われる。以上のように捉えると、第一句は同じ意味の繰り返しで対照的なものではないことが明らかになる。
 第二句は第一章「斧以てこれを斯く」と第二章「鴞有りて萃まる」とである。これも同じ意味に捉えるべきであろう。前者が斧でナツメの実を枝ごと剪ってしまうことを言うのに対して、後者は鴟がたくさん集まってきて、梅の実を啄んでしまうことを言うと捉えることができる。「啄」や「食」という語が見えないが、これは《魯頌》「泮水」に「翩彼飛鴞.集于泮林.食我桑黮.懷我好音」と見えるように「実を食ふ」を省略しただけのことで、たくさん集まってきて、全部食べてしまうことをいうものである。このように捉えると、ともに生命力のある実を採ってしまうことをいうのである。これらの二句は何の興であろうか? それは第三句以下の内容によって判断することになる。
 第三句「夫や良からず」の「夫」を夫婦の夫と捉えるか、それとも「彼」や「かの人」の意と見てそれ以外の人と捉えるか、ということが一つの問題である。斧がもしも文字学のいう「父」に通じるとすれば、族長の意味ももってくる。このことはここでは保留にしておき、第四句以下に進んでみよう。
 第一章の「國人これを知れり」という場合の「国人」はその国の人々全員を指すのか、それともその国を構成する氏族たちの代表を指すのか、解釈の分かれるところであろう。これもひとまず保留しておこう。では第二章の「歌ひては以てこれを誶ぐ」は誰に対して歌うのかということである。「之」が誰を指すのかという問題である。この場合「之」が名も知られぬ人であるとは考えにくい。歌まで作られるくらいだからそれ相当の名だたる人物であったと思われる。こういう風に歌で告げる風刺的な歌謡を「童謡」とも言うのであるが、それは一般庶民の誰かではなく、その国の中で有名な人をいうものと考える方が適切であるような気がする。そうすると君主(殿様)ということになる。鄭箋に「陳佗」とあるが、そのように具体的な君主に特定することにはこだわらない。以上の解釈を踏まえると、「夫」とは陳の君主のことであり、斧も鴞もその隠喩だということになる。そして君主が棘や梅の生命力を奪うということになる。
 第五句の「知れども已めず」「誶ぐれども予を顧みず」は君主が人々の風刺的な歌を耳にしながら一向聞き入れないことをいうものだと思われる。第二章の読み方は「誶ぐれども予は顧みず」であろう。この「予」は君主を意味する語である。
 第六句は第二章「顛倒して予を思はむ」が問題になる。これはひっくりかえるほどひどい状態になってはじめて自分の行いの酷かったことに気付くことになるということであろう。
 歌全体としては民衆が童謡の形で君主に訴える諷刺の歌と捉えるのがいいような気がする。夫婦間のことを歌うとしてしまうと解釈に無理が生じるからである。ナツメと梅とは生命力のあるものの比喩であるが、斧で伐採したり、鴞が夜のうちにすっかり啄んでしまうというのは、君主が見えないところで酷い行いをやっていることをいうものかも知れない。ナツメと梅とを民衆と捉えると政治的な諷刺と捉えることができるが、女と捉えるとどうであろうか? 何れとも決めかねるところがあるし、また決めきれないところに、このような諷刺的な歌謡の暗示的な性格があるのだと思う。