高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

命の大切さとは何を意味するのか?

 秋葉原無差別殺人の犯人加藤智大が死刑の判決を受けた。今度はさすがに死刑廃止論は出てこなかった。7人を死にいたらしめ、10人を負傷させたが、その中には重傷を負った人もいる。自暴自棄に発した実に凶悪な犯罪であるから、死刑は当然のことだという共通認識が得られているのだろう。弁護側だけが「更正の可能性」を説き死刑回避を訴えた。
 しかし私の心に小さくない疑問が湧いてくるのを禁じ得ない。それはなぜこれほど多くの人を殺傷するに及んだのかという疑問である。加藤はもともと死刑になるためにこれほど多くの人を殺めたのではなかったか? 裏返していえば、これほど多くの人を殺さないと死刑になることが確定しないかも知れないという考えがあったということである。この考えは以前、大阪教育大学付属池田小学校の児童8人を殺し、さらに児童13人と職員2人をも負傷させた時の犯人宅間守の言ったことを思い出させた。
 宅間は自分が死刑になることが確実になるように、インテリの子弟の通う小学校を狙い、しかも一人ぐらい殺したのでは死刑にならないと考えて、無差別に多数を殺すという残虐な行為に及んだ。そして宅間の希望通り3年後だかに死刑が執行された。共通点は自ら死ぬことができないために、確実に死刑になるような凶悪な犯罪を犯すという点である。
 今回も弁護側から「更正の可能性」を訴えて死刑回避の要望が出た。このような要望が出てくるのはいつものことであるから、予想とおりであり、何も不思議なことではないと受け取る向きも多いのであろう。しかし「不思議でない」と思うこと自体に不思議はないのであろうか? こういう出来事が繰り返されることに慣れてしまって、これほどの凶悪犯に対しても「更正の可能性」が持ち出される。そしてそのことに疑問が出ないのはなぜだろう? 私の心の中に小さくない疑問が湧いてきたのは、そのような惰性的な心理に対してである。
 弁護側は本当に「更正の可能性」があるとは思えない場合でも、弁護士としてはそう説かざるを得ないと考えているのではないか? 「更正の可能性」を説くことが弁護士としての任務とでも考えているのではないか? そういう風に思えてならないのである。
 「人が人を殺すのは命の大切さを知らないからだ」という、いかにも尤もそうなことを説く人がいる。あたかも命の大切さを言葉や行動で教えることができるかのようにである。しかしこれは形式論理としてそのような結論を出しているだけで、本当は真実を言い当てている言葉ではないことは分かっているのではあるまいか? どうすれば人を殺す人をなくすことができるだろうか? と考えた時に、こういうことしか言えないというのが真相ではあるまいか?
 死刑廃止論者は、自ら人を殺す側に立つことを人間として選びたくないということではあるまいか? このこと自体は尤もなことだと思う。しかしそれは裁く側の苦悩を訴えているのであって、殺された人の立場に立つものではない。殺された側のことは忘れてしまって、今自分が立ち会っている殺人という行為から逃れたいと思っているということである。死刑という判決を選ぶか否か、ある意味では二者択一が可能な地点に立っている。そして、死刑を回避するという選択肢があると意識する余裕があるということであろう。裁く側の苦悩もまた計り知れないところがあることと思う。そういう苦悩を共有してほしいという思いから、裁判員制度が出てきたのであろう。
 ところで本来書こうとしたことになかなか入れずにここまで書いてきたのは、そこに入るまでに考えておくべきことが少なくないからである。ここからは少し、私の思うところを記してみたいと思う。
 人を一人殺しただけでは死刑にならなくなったのはいつ頃からだろうか? 調べればきっと分かることだと思うが、今はいつ頃からということが大きな問題ではなく、以前は人を一人殺しただけでも死刑になっていた、ということを思い出しておきたいのである。自分の身勝手から人を一人殺した福田和子が、時効になるまで逃げとおそうとして、時効寸前に捕まったという10年ほど前の出来事は、まだ記憶に新しいが、その時私は不思議に福田和子に同情が湧いた。福田は福田なりに不幸な家庭に育ち、不幸というよりも不運な目に遭遇していて、現在ならもっと同情が集まるだろうに、と思ったからである。
 人を殺したら死刑になる、というように私の子どもの頃は教えられていたし、そういう意識を持ち続けていた。しかしいつの頃からか、凶悪犯や「殺意のある」殺人、保険金など金銭目当ての殺人以外は、死刑にならないケースが増えてきた。「殺意」があったから殺したのに、後で「殺す気はなかった」などと嘯く者も数多く出てきた。またその発言をできるだけ受け入れようとする傾向も強くなってきたように思える。しかし、こうすれば相手が死ぬかも知れないという意識をもってやったことを「殺意」がなかったと言うことができるのだろうか? 微妙なところがあるとでも言うのだろうか? 「死ぬかも知れないと思ったが……」と後になって言うということは、「殺意」があった何よりもの証拠である。やってしまった後で、自分のしたことが恐ろしくなり、それを認めたくなくなったということに過ぎない。一時的にしろ「殺意」をもったことは明らかであり、殺人を犯した自分が今度は死刑になるかも知れないという恐怖感が込み上げてきたということだと思う。死への恐怖である。そしてこの恐怖感は殺された人への同情でもある。しかしそうであるにしても、また一時的であるにしろ、「殺意」をもったのであり、その結果人を殺したのである。
 命の大切さを教えることは可能か? 刑法で人を裁くこの世の中でそのようなことが可能なのだろうか? 私は死刑を積極的に支持する者ではないが、死刑廃止論に対しては大きな疑問をもつ。その点で多くの人と共通した考えをもっているかも知れない。「命の大切さ」を言葉や行動で教えることなどできないとも思っている。命の大切さを思うということは、他人の命も自分の命も等価であると思うことだと思う。つまり、人の命を奪ったということは自分の命を絶つことによってしか償うことができないということだと思う。かつては、不可抗力であるにしろ、人を殺してしまったことを悔いて自ら命を絶つ人もかなりいた。そういう尊い時代が確かにあったということを記憶に留めておきたいのである。
 人の命を自ら奪っておきながら、死んだ人の分まで長生きするという、驚くべき言葉を耳にしたことがある。一再ならず聞いた言葉である。こういうことを言わせておくこと自体が、人の命を粗末なものと考えている証拠ではあるまいか? そのような人が、人の命の大切さを人に教えることなどできないはずである。