高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

曲阜にて(その5)──『孔子故里志』

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 『山東省志・孔子故里志』《山東省志71》(中華書局 1994年)767頁。
   山東省地方史志編纂委員会編

 孔子と曲阜とに関する総合的で詳しい書物である。曲阜に行く前にこういうものを読んでおきたかった。行く前に私が読んでいたのは、ガイドブック類の他、古典的な地理書である『水経注』や『読史方輿紀要』、そして曲阜の発掘報告『曲阜魯国故城』(斉魯書社 1982年)だけで、予習としては不十分であることを痛感していた。現地に行った後、大きな書店なら何か手に入るかも知れないと思って、「舞雩台」に行ったついでに立ち寄った新華書店(大同路店)で訊ねたが、心当たりがない様子だった。半ば諦めていたのだが、その後、孔廟に入り露店の土産物売り場の中にさりげなく並んでいたこの書を見つけた時は驚いた。値段は50元。刊行後25年経過しているのでこの値段だが、いわば据え置き価格である。
 時々拾い読みをしているだけなので、内容の紹介はできないが、大項目だけ挙げておく。この本は孔林でも見かけた。

第一篇 孔子
第二篇 孔子宗族
第三篇 孔氏教育及著述
第四篇 孔廟
第五篇 孔林
第六篇 孔府
第七篇 文物管理
第八篇 孔子研究
第九篇 故里建設
附録

 

附言

 私自身は孔子という人を、儒家儒教の始祖として見てはいない。そういう予め用意されたお誂え向きの枠組で読むと、見えるものも見えなくなるからだ。春秋時代の末期に一人の指導者として活動した人物が、人々の心を動かすような名言をたくさん残した。それを弟子たち、孫弟子たちが口頭で伝承し記録したのが『論語』という書物として残された。という観点で見ているだけである。そもそも儒家とは何か? 儒教とは何か? 孔子はそのような思想的枠組を意図したわけではあるまい。『論語』そのものが儒教的に読まれているのではあるまいか? 最近『論語』を読み直していてそのようなことを感じた。これも私のテーマになりつつある。新出資料に飛びつく前にやるべきことがたくさんある。そしてそれを見極める方法はやはり、言語の用例分析という面倒な作業になる。やるべきことは決まっている。


   → 曲阜にて(6)──舞雩台。
      http://mojidouji.hatenablog.com/entry/2019/10/15/215334