高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

曲阜にて(12)──曲阜の城壁(北壁)その他

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 今目にしているのは、曲阜明城の北垣(北壁)である。城壁の北側に立っているので壁は西方向に伸びている。(東方側はこの後に掲示する。)

 曲阜を囲む城壁は明城・漢城・周城の三重構造になっている。一番外側が西周時代の城壁だが、漢城との距離が東西長・南北長とも相当あり、周城から漢城まで歩くだけで非常にくたびれる。周城の長さを記してみる。(『曲阜魯国故城』による)
   東垣=2,531m
   北垣=3,560m
   西垣=2,430m
   南垣=3,250m
   総周長=11,771m

  漢代の城壁は東西・南北とも周城の2/3以下だから面積は半分以下になっている。(周城の長さは漢城の1.5倍ということになる。)
 そして今目にしている明代の城壁は、孔廟・孔府・顔廟を内包する範囲で東西・南北とも漢城の2/3以下だからやはりその半分以下になっている。漢城の長さはこの明城の1.5倍、周城の長さは漢城のさらに1.5倍である。西周時代の曲阜すなわち魯国が非常に大きな都市であったことが分かる。
 面積だとどうなるだろう? 地図で見た限りでは、明城の面積は周城の6分の1程度であろうか? 魯の国の中心は、西周時代では周公廟辺りだった。漢代になると周公廟の東側に城壁が築かれるので漢城全体での位置としては東北角に当たる。漢代には魯の霊光殿があったので中心地としては変わらないのではあるが。

 

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   先ほどの位置から、漢代城壁を東方に向って撮ったもの。

 

 

 さて城壁の話しから魯国の大きさの話しになったが、実はこの城壁にたどり着く前に、「望父台」に行ったのだった。「望父台」というのは魯国から周公旦のいる方向を望み見るために、周公廟の少し西に作られた台(展望台のようなものか)である。

 西周王朝が殷王朝を滅ぼした後、魯の地には周公が封建された。実際に魯に赴いたのは周公旦ではなく息子の伯禽なのだが、その伯禽たちが周公旦を遠望するための台をわざわざ作った。そのような台に興味を惹かれたのであるが、行ってみると当然のことながらすっかり様子が変わっている。望父台の標識さえないので、たまたま出会った人(多分公安関係者)に訊ねてみたところ、非公開とのことだった、またしても。だが「望父台」の名は知っていたのである。
 望父台の周囲は、封建された周人のかなり大きな墓地になっていた。またその北の方はかなり広い池沼だったとのことだが、今はそのような面影はない。更に、望父台墓地の北西方向にも墓地(苗圃墓地)があった。詳細は省くがこちらの方は原住民の墓地で、墓葬からすると殷系のものである。その後、西周時代の古道でもあった道を通って城壁までやって来たという次第。そしてこの後、城壁に沿って東方に向った。その先には、顔廟(顔回の廟)があるはずである。

 

   → 曲阜にて(13)──顔子廟(顔廟)・孔林と飲食店
      http://mojidouji.hatenablog.com/entry/2019/11/05/210857