高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

曲阜にて(その6)──舞雩台。

 現地から一度レポートした所だが、少し時間をおいて振り返りながらまた書いてみることにした。現在の地名としては「舞雩台公園」。ちょうど曲阜市公安局の真南にある。バスで来る場合も「公安局」というバス停で下りて直ぐの所。
 雨乞いの儀礼を行なった場所である。「舞」字は「祈雨」の舞の象形。「雩」字はもと「𩁹」のように書くが甲骨文にすでにその字形がある。「祈雨」の唱え言葉である。「詩経」には「吁嗟(于差)」という言葉が何度か出てくる。

 

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 舞雩台遺址の周囲にはこんな風に樹木が植えられ、さらに低い石柱で囲まれていて見えないが、土を盛り上げた形が隙間から少しだけ見える。

 

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  少し離れて撮ったところ。

 

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曲阜市舞雩台公園導覧図

 

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  同・平面図。

 

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  遺跡の保存公園として工事をしている最中。

 

 『曲阜魯国故城』によれば、舞雩台は春秋時代の南東門の真南1,735mの位置にあるとのことである。実はこの南東門、2012〜2013年の発掘で魯国故城の中軸線にあることが明らかになった。いわば、故城を南北に貫く中央通りが真っ直ぐ北上して周公廟宮殿区に達しているということになる。周公廟や南東門も儀礼を行なう場所であるから、儀礼を行なう場所は、中央通りに一直線上に位置しているということでもある。

  周公廟 ⇒1.6km ⇒ 南東門⇒ 1.7km⇒ 舞雩台 (注)数値は概算。

 このように見てくると、『春秋左氏伝』を読む時にも、当時の魯国の行事の様子をかなり具体的に描くことが可能になってくる。

 

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なお、南東門の発掘は終り、今は社宅のような建物がたくさん建っていて、門の遺構は見えない。写真に収めたのは考古学の地図に出て来る「高洪五金電料」という店であるが、この店の人たちは南東門のことにはあまり関心がないようだった。むしろ通りかかった子ども連れの若いお母さん(その社宅のような所に住んでいるらしい)が関心を示してくれて、「そうだったのか」ととても嬉しそうだった。

 
   → 曲阜にて(7)──周代の東の城壁跡
      http://mojidouji.hatenablog.com/entry/2019/10/18/210801