高島敏夫の研究室

白川文字学第二世代です。2017年8月にはてなダイアリーから引っ越してきました。少しずつ書き継いでいきます。

拙著『西周王朝論《話体版》』(朋友書店)について(3)

 一見いきなり大論を書いたように見えるとしても、そのような意識は全くもっていませんでした。その過程では分析や考えの練り直しを何度も何度も重ねていったのが実状で、そうした数々の失敗や徒労のごときものは、そのテーマが必要とする作業だったと言うことができます。また見方を換えるなら、失敗が集積することによって、進むべき道を次第に絞り込むことができていったと言う方が実感に近いと思われます。そのような過程そのものが苦しいのは言うまでもありませんが、何か重要なことが見つかることが楽しみでもあります。私はそういうことを楽しめるタイプの人間なのではないかと思います。そして何よりも興味深いのは、試行錯誤的な要素のある分析の過程で、全く別の分野の優れた論文や思想的な書物から思いがけない示唆を受ける場合があることです。あるいは触媒のように働くという方が当っている場合もあるかも知れません。これが論文の内容を深める作用をする。全くの偶然とは言えないかも知れませんが、想定しなかった局面で示唆を受けるということ。これが毎回のように起きている。当初漠然と考えていた結論的な内容が深まり、また時には次に取り組むべきテーマが示唆されるという経験は、一種貴重な出会いのように感じられます。学問をしていて最も嬉しい瞬間でもあります。

 若い頃からずっとこんな調子で(長いスパンで考えるというやり方で)やってきたのは、恩師白川静の「考えが自然に熟してくるまで待て」という教えによるものです。これは以前ここでも引用したことのある、利根川進のやり方と通じるところがあります。「全体観ができないといけない」というのも白川の教えですが、これもテーマを発想する上で、大きく作用しているだろうとは思いますが、特に意識してやっているわけではありません。


 小さな論の積み重ねが大論になる場合があるのは(そのように見えるのは)、当初からある程度の構想めいた見通しを持っているからで、その見通しの中に何らかの形で位置づけられた小さなテーマを論じているからです。行き当たりばったりに思いついた単発的なテーマをいくら積み重ねても、大きな論に発展することは決してありません。このことを私は学生時代に気付いていたのです。最近は、なかなか解けそうにない問題でもいつか解ける日がやって来るという考え方に立っています。もちろん膨大な労力と時間を費やすわけですが。自分を育てるのは粘り強い耐久力ではないかと思います。結論を急ぐ人は自分を育てることを棄てているということですね。待てない社会の中で、様々な分野においてそういう人が増えてきた、つまり多数派を占めつつあるというのが最近の実感です。

        5月6日(日)に若干文言の修正を施しました。

 

 二年前に書いたこの文章を読み返していてふと気付いたのは、全体を見る視点(巨視的な視点)と部分を見る視点(微視的な視点)とを頻繁に往復するような思考法は、ひょっとしたら、学生時代にマルクスの『資本論』を読んだことによって習得したものではないかという気がしてきた。『資本論』を読んだきっかけは、『日本語はどういう言語か』や『弁証法はどういう科学か』の三浦つとむの言葉である。言語の構造と資本制社会の構造とが似ていること。そして唯物弁証法的な思考法を身に着けるためにはマルクスの『資本論』を読むのが良いとされていたからである。素直な人間なのでそれを実行したまでである。読み通すのは困難を極めたが、何とか読み終えた時、頭の構造が変わったという明確な意識を持った。それを読んでいた時、三浦が書いていたように、唯物弁証法的な思考法を何とか身に着けようと意識しながら読んでいた。随分昔のことだからすっかり忘れていたのだが、ふとそのことを思い出したのである。
 冒頭の価値論が難しいので躓きやすいのだが、難しい所はノートに書きながら読むという方法で難所を突破したのである。この読書法は恩師白川静が実践していた読書法である。写しながら読むのだから普段のようなスピードでは進まない。写しながら、つまりじっくり考えながら読むということである。やってみれば分かることだが、普段いかにせかせかと読んでいるかということを痛感させられる。いわゆる「速読」とは対極にある読書法である。学生のうちから「速読」などを実践してしまうと、じっくり読む習慣がつかない。つまり、どんな文章でも速く読んでしまうので、重要な事柄を読み落としがちになるのである。速読の件では、自分の経験を踏まえて以前に書いたことがあるので、ここでは繰り返さない。実は、冒頭の難解な部分は合計7回書き写してやっと理解できたという経験は今も忘れずにいる。

  2020.3.7(日)に加筆した。